2023.10.06
【近大×100年】近大の転換点!第1章 近畿大学の誕生
- Kindai Picks編集部
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近畿大学は2025年に創立100周年を迎えます。その前身である大阪理工科大学へ入学し、その後近畿大学に勤め続けてきた近畿大学名誉教授、亀岡 弘先生。亀岡先生は近畿大学が生まれた当時の学生でもあり、まさに近畿大学とともに人生を歩まれてきました。学徒として戦争を経験した世代でもある亀岡先生、今回は先生の人生の軌跡とともに近畿大学の歴史と発展について紐解き、近畿大学のターニングポイントに迫ります。
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亀岡弘(かめおかひろむ)
近畿大学名誉教授。第3代近畿大学校友会会長。1952年(昭和27年)大阪理工科大学応用化学科卒業。卒業後、近畿大学理工学部助手、講師、助教授を経て1970年(昭和45年)近畿大学理工学部教授となる。その間、1962年(昭和37年に広島大学広島文理科大学から理学博士を授与される。1966年(昭和41年)にはDepartment of Biochemistry, University Wisconsin,U.S.AにProject Associateとして1年間留学。1999年(平成11年)3月に近畿大学を退職し、同年4月より近畿大学名誉教授となる。天然物有機化学、アロマ物質を専門とし、単著として「エッセンシャルオイルの化学」(裳華房)、「エッセンシャルオイルの科学一精油の正しい知識と理解を深めるために一」(フレグランスジャーナル社)など。2009年(平成21年)瑞宝中綬章を受章。
石塚 理奈(いしづか りな)
2016年(平成28年)近畿大学文芸学部文学科卒業。
東大阪市をホームタウンにするJリーグクラブFC大阪のスタジアムMCやABCテレビ「本日はダイアンなり!」サンテレビ「VINTAGE倶楽部」など、リポーターやイベントMC、大阪府庁公式行事の司会などと多岐にわたって活躍。趣味は映画鑑賞、スポーツ観戦。
戦後の日本と、近畿大学
石塚:はじめまして!平成28年に近畿大学文芸学部を卒業しました石塚理奈と申します。本日はよろしくお願いいたします。
亀岡:こんにちは、昭和4年生まれでもうすぐ94歳になります。昭和27年に大阪理工科大学を卒業し、同年から近畿大学の助手として奉職いたしました。そこから平成11年に退職するまで46年間近畿大学に勤めさせていただきました。こちらこそどうぞよろしくお願いします。
石塚:早速ですが、先生が大学に進学されるまでのお話をお伺いできますでしょうか。
亀岡:昭和20年に太平洋戦争が終戦となりましたが、この戦争は昭和16年に始まり、翌年の昭和17年に岸和田中学校(現・岸和田高等学校)に入ったんです。
石塚:戦時中の学校生活はどのようなものでしたか?
亀岡:戦争の真最中ですから、中学1年の時だけは丸々勉強ができました。2年になると農作業が半分くらい、そして私の住んでいたところの近くの羽倉崎に飛行場がありまして、その掩体(えんたい)工事をしていました。
石塚:掩体工事というのは?
亀岡:飛行機を空襲から守るための掩体壕を作る作業です。土を高さ10mぐらい、コの字を縦にしたような形に積みます。半年間ほど、週に2・3日はそのような工事に駆り出されておりました。中学校3年の8月からは学徒動員で、軍需工場に引っ張り出されました。私は多奈川(現岬町)の艦船工場に行き、海防艦と特殊潜航艇を作っていました。友ヶ島は当時の要塞地帯でありましたので、空襲に来る飛行機はそこへ爆弾を落とそうとどんどん来ます。工場で働いていた私たちも艦載機の標的となり、「もうあかん」と思ってしまうような体験も幾度となくありました。
石塚:ということは、戦時中はあまり勉強はできてなかったのですか?
亀岡:そうですね。学徒動員の1年間、3年生の夏から4年生の夏まではそのように過ごしておりましたので、勉強は何もできていません。家へ帰っても灯火管制が敷かれていたため、電気を暗くして過ごさなければいけない。ふと「戦争がすんだら自分たちはどうなるんやろか」と将来のことを考える瞬間もありました。
戦争中に、私たちより一期上からは旧制中学校を4年で卒業しても5年で卒業してもよいということとなり私たちも同様でした。はじめは5年間通って大学予科を受けるつもりでしたが、4年生の終わりにいろいろ受験して、大阪理工科大学の予科に合格しました。大阪理工科大学は理科の学生を養成するという目的で、戦時中の昭和18年に発足しておりました。当時の旧制大学は予科3年、学部3年の計6年間通う必要がありましたので、そこから6年間通いました。
石塚:当時、大阪理工科大学に入りたいと思ったきっかけはどこにありましたか?
亀岡:当時の私は戦後の日本がどうなるか、自身がどう生きていけばいいのかについて考えていました。敗戦国としてアメリカの占領下にあり、周りのさまざまな国から日本はどう見られているのかについても。そうして、「日本は物資が不足しているので、ものを作らなきゃならない」と思い至りました。そこでものづくりをするにはやっぱり理科系や工学系がいいだろうと思ったことがきっかけです。
石塚:その頃はまだ16・17歳ですよね。その若さでその考えに行き着くことがすごいと思います。
大阪理工科大学の思い出
1949年(昭和24年)頃の西門。向かって左側には、大阪理工科大学の名前が掲げられている。
石塚:周りの学生や友達はどうでしたか。皆さん同じように先のことを考えていた人が多かったのでしょうか。
亀岡:そうですね。やはり日本という国をどういうふうに、我々若い者が立て直していかなければならないか、という考えはみんな共通して持っていたと思います。当時はぶらぶらしてるような若者はほとんどおりませんでしたね。
石塚:では大学では6年間ずっと勉強の日々だったのでしょうか。
亀岡:勉強もしましたけれども、中学時代に随分締め付けられましたから、青春を謳歌したいという気持ちもありました。そのためにも自分の好きなものをやりたいと思い、予科の3年間陸上競技部で活動しました。陸上競技部は関西インカレで入賞したこともあります。あとは、ラグビー部にも所属していたと記憶しております。
石塚:スポーツマンだったのですね。ご自身を振り返ってどんな学生だったと思いますか。
亀岡:朗らかで誰にも好かれるような性格の学生だったと思います。スポーツを一生懸命やっていたからでもありますし、予科や学部の友人とはずっと仲が良かったです。それこそ最近まで一年に2回ほど集まっていたくらいで、同窓会の企画もよく任されておりましたし、同窓生からもそんな悪い印象を持たれてなかったんじゃないかと思っています。
石塚:すごく慕われていたのですね。当時は何か将来の夢とか、こういうことをやりたいという思いはありましたか。
亀岡:先ほど申しましたように、これからの日本はものづくりをしないといけない、ということをずっと考えていました。そのため、卒業研究では合成研究を得意としていた先生についておりました。そこでは「匂い」を研究しましたが、当時はそこまではっきりと「この研究をしたい」と決めていたわけではなかったですね。
石塚:先生の在学中に近畿大学が生まれたとのことでしたが。
亀岡:ちょうど私が予科の3年を終えた昭和24年ですね。大阪専門学校と大阪理工科大学を一緒にして近畿大学にするという話が出てきました。その時は深く何かを思うことはありませんでしたが、その年に大学予科の1年生は、近畿大学の二年に編入されることに決まりました。つまりは大阪理工科大学として入学した者も、卒業すると近畿大学を出たということになります。近畿大学という名を大事にし、大学の名を挙げなければいけない、という思いを持ったことは確かです。
助手を経て教授へ
内から見る近畿大学のターニングポイント
石塚:先生は卒業後も近畿大学に助手として残り続けましたが、そこにはどういういきさつがあったのですか?
亀岡:卒業研究の時についていた先生に声を掛けられたことがきっかけですね。当時は今のように就職が自由にできるような時代ではなく、自分の卒業研究の先生が世話してくれるというような時代でした。私は大学卒業後にものづくりができるような会社に行きたいと思っていたのですが「おい亀岡、一つ俺の片腕になってくれんか」と当時の平尾先生に声を掛けられまして。「先生の片腕になるような僕じゃありませんよ」とやんわり断ったんですけれど、履歴書を持ってこいと言われ履歴書を持っていったら「大学に依頼したよ」ということで、助手にならざるをえなくなったという……(笑)
石塚:気付いたら助手になっていたのですね! その平尾教授はどんな方だったのでしょうか。
亀岡:恐ろしい先生だったんですよ。言い換えればそれだけ規律をきっちりと守られる方でした。ドイツに留学された先生で、実験が上手でしたね。その先生に20年ほどお仕えしたわけですが、私はその途中で教授になりましたから、自分の学生を指導する立場となりました。その先生の薫陶を受けただけに、学生を指導する際には「平尾先生のように厳しく指導しますよ」と学生に言うと「平尾先生のように指導してもらったら、みんな辞めてしまいますよ」と返されたこともあるほどです。
石塚:教授になられた頃の近畿大学はどんな状況でしたか。
亀岡:私が教授になった時が、ちょうど医学部を作ろうかという話が出てきた時でした。その頃の近畿大学は今とはもう全然違います。昔の近畿大学には大学の風格というものを感じませんでした。昭和30、40年ぐらいまでは大量の雨が降れば、大学の中が水たまりになるほど環境的にも悪かった。私たちの化学実験室はそうして水が溜まることでガスが出なくなるので、レンガやブロックを敷いて器具を濡らさないようにして実験をしたほどです。
石塚:それはどのタイミングで改善されていったのでしょうか?
1983年(昭和58年)頃の近畿大学医学部。
亀岡:医学部ができたころから変わっていったのかな、という印象ですね。
石塚:調べたところ、昭和50年代には医学部を含め5つの学部が設置されているんですよ。そこで注目度が上がり近畿大学のイメージも変わったのでしょうか。
亀岡:その通りです。近畿大学のターニングポイントは特に医学部でした。その前後で学内の雰囲気も大きく変わりましたから。注目度で言えば、近畿大学病院と医学部ができたことが近畿大学の人気を押し上げた要因であるようにも思います。
亀岡先生が担当された生物工学研究室の集合写真(前列左から4番目が亀岡先生)。
石塚:雰囲気というのは、さっきおっしゃっていた風格が出てきたという話でしょうか。
亀岡:風格も出ましたし……雰囲気が変わった一番の要因は女性が増えたことだと思います。
石塚:女性ですか?
亀岡:それまでは、理工学部には女性なんてほとんどいませんでした。私の研究室でも、本当1人か2人くらいでしたね。しかし、医学部設立後からは女性が増え続け、私が大学を辞めるまでの10年間では、多い時には研究室に10人ぐらいの女性がいましたね。それほど雰囲気が変わってきています。今新しくできている学部は女性もたくさん入学してくるような学部ですし、また、さらに雰囲気は変わってきているのかもしれません。
石塚:私は文芸学部卒業なんですけど。確かに女性が多かった印象です。
「モノづくりの街」東大阪 引き継ぐ者の減少
石塚:先生は先ほどものづくりをしたいっておっしゃっていましたが、近畿大学のある東大阪市は今では「モノづくりの街」と呼ばれています。当時は少し様相が違いましたか?
亀岡:東大阪は昔からそうなんです。高井田から生駒に抜ける大きな道がありますでしょう、その両側には中小企業が立ち並んでおりました。私の学生時代には鉄鋼の中小企業、特にボルトやナット、バネを作ったりするようなところが多かったんじゃないかと思います。昨年のNHKの連続テレビ小説「舞いあがれ!」でも取り上げられていましたね。ああいうようなものが多かった印象です。
石塚:まさにあれは東大阪市の歴史をたどるお話でしたね。
亀岡:当時の大阪専門学校、その後の近畿大学に限らず「ものづくりをやらないかん」という東大阪の方々の声があり、近畿大学には東大阪からものづくりの相談がたくさん来ておりました。今でも、理工学部の機械工学科や電気電子通信工学科などは東大阪のものづくりの会社と交流があるはずです。
石塚:東大阪市全体を見て、戦後からどう変化してきたと感じますか。
亀岡:今は若い人がなかなか後を継がない・継げない風潮になってきたと感じます。後を引き継ぐ者が少なくなれば、今までのような発展がなくなるんじゃないかな、と懸念しております。昔は中小企業の理念や技術が、親から子、そしてさらにその子どもへ……というように引き継がれてきたわけですね、もちろんそこには、今問題になっている少子化の影響もあるかもしれません。
石塚:東大阪市の目指すものとして、「子どもも住みやすい、教育が充実した街にしよう」という考えがあると思いますが、もう少し課題があるのかな、とも思います。
亀岡:これは難しい問題ですよね。やはり人口の推移というものも考えた上で、日本の産業を考えなきゃいけない。それもまた「モノづくり」ですし、日本全体の今後の課題とも言えますね。
今後の近畿大学の発展を見据えて
石塚:2025年に100周年を迎える近畿大学ですが、今後の近畿大学に期待することはありますか。
亀岡:100年という長い歴史を歩んできた大学ですから、経済界においても多くの校友社長が活躍しております。この先大企業の社長や重役になるような校友も増えてくるでしょう。そうすると、近畿大学は今よりももっと名前が挙がってくると思います。
石塚:それはどういうことでしょうか?
亀岡:それによって、後輩を引っ張ってくれる校友や企業がどんどん出てきて、近畿大学がもっと力のある大学として認知されるようになります。これからも卒業生の活躍を私は信じています。
石塚:そうすると新たなターニングポイントが生まれるかもしれないですね。
亀岡:私は今回の100周年も一つのターニングポイントになってほしいと思っています。この間の新聞にも載っていましたが、近畿大学の入学志願者が10年間連続でトップとなりました。それは本当に喜ばしいことです。
石塚:近畿大学の今後にさらに期待しているということですね。近畿大学の変遷について貴重なお話をたくさんいただけました。医学部設立が近畿大学躍進の一つのターニングポイントというお話を伺えましたので、私の方でも近畿大学と医学部についての関係を紐解きたいと思います。亀岡先生、本日はどうもありがとうございました。
----------第2章に続く----------
取材・文:笑屋株式会社
写真:井原完祐
企画・編集:近畿大学校友会
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