2023.10.06
【アドベンチャーランナー・北田雄夫氏】 大自然を相手に人間の限界に挑む。ゴールで感じた熱き「青春」
- Kindai Picks編集部
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北田雄夫さんの活躍の舞台である「アドベンチャーマラソン」は、険しい山岳道や灼熱の砂漠といった、厳しい大自然の中を走るレースです。その距離は実に数百km、ときには1,600kmに及ぶこともあり、数日から、長い大会では約1か月かけてゴールを目指します。北田さんは世界7大陸のアドベンチャーマラソンを踏破した、日本で初めての選手です。
今でこそ超過酷なレースに挑んでいる北田さんですが、子どもの頃は身体も気持ちも弱かったといいます。それでもかけっこが得意で、走ることが大好きだった北田さんは、学生時代に陸上の短距離選手として活躍しました。その後、一度は競技を引退するも、30歳でアドベンチャーマラソンの世界に飛び込みます。北田さんはなぜ、厳しいレースに挑み続けるのか、そして7大陸を制覇したとき、その瞳には何が映っていたのでしょうか。肉体も精神も極限まで追い詰めてきた北田さんに、想いを語っていただきました。
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1984年生まれ。2006年(平成18年)近畿大学理工学部情報学科を卒業。日本唯一のプロのアドベンチャーランナー。 学生時代は短距離選手として日本一を目指し、大学3年生のときに4×400mリレー日本選手権3位と結果を残す。その後、志半ばで挫折し大学卒業を機に競技を引退、一般企業に就職する。2014年、30歳で会社を辞めプロのアドベンチャーランナーに転身。2017年にはアドベンチャーマラソンで、日本人初の7大陸踏破を達成する。 TVなどのメディア出演をはじめ、講演やYouTubeでのレース映像の配信、著書の出版等を通じて、一歩を踏み出すことの大切さと、チャレンジすることの素晴らしさを多くの人に届けている。
気持ちも身体も弱かった子ども時代。けれど走ることは何よりも楽しかった。
――北田さんは現在、数百Km級のレースに挑んでいらっしゃいますが、学生時代は短距離選手だったそうですね。陸上を始めたきっかけは何でしょうか。
北田:僕はもともと貧血気味の子どもでした。ただ、幼い頃からかけっこが得意で、走ることが好きだったんです。小学生の頃に体育の授業で50m走のタイムを計ると、いつも周りの友だちと比べて、すごくタイムが良かったんです。
それで中学校に上がったとき、自然に陸上競技部を選びました。ただ、陸上と本気で向き合い、タイムが伸び始めたのは高校生になってからです。熱心な顧問の先生や、切磋琢磨できるチームメイトに囲まれ、今思うととても恵まれていたと思います。懸命に練習に打ち込み、3年生のときには近畿大会で準決勝に残るなど、結果もついてきました。
――高校時代に大きく成績を伸ばされたのですね。そこから近大に進んだ理由を教えていただけますか。
北田:さまざまな大学を調べた中で、近大に一番魅力と可能性を感じたためです。僕は数学や化学に興味があって、理系で入りたい大学を探していたら、近大の自由な雰囲気や校風などにとても魅力を感じました。「この大学が一番おもしろそうだ」と思い、進学を目指して予備校に通って勉強していました。すると3年生の夏の終わり頃に、近大からスポーツ推薦のお話をいただいたんです。しかも僕が専攻したい理工学部を選ぶことができて、これは受けない手はないと思い、近大への進学が決まりました。
近大で陸上に没頭した4年間。ひたむきに競技に向き合いリレー選手として全国3位に。
近畿大学陸上競技部時代。4×400mリレーで日本選手権3位に。
――どのような大学生活でしたか?
北田:スポーツ推薦で入ったからには「やってやるぞ」という気持ちが強く、4年間本当に陸上に没頭していました。ただ、全国から才能のある選手が集まっている中で、最初は練習についていくことさえできなかったんです。力の違いを見せつけられましたね。それでも走ることはおもしろくて。コツコツと練習を続けると、次第に成績も上がっていきました。3年生の時にはリレーの第一走者に選んでいただいて、4×400mリレーで日本選手権3位に入ったんです。努力した結果、自分の成長を手に取るように感じられて、本当に嬉しかったですね。ただ、日本一が手に届くところまで来たのに、あと2つの差がとてつもなく大きくて、4年生になっても思うような結果とはなりませんでした。
――競技以外ではどのような学生生活を送られていましたか。
北田:陸上に熱中しつつ、授業にもまじめに出席していました。僕が入学したときに情報学科が新設されて、授業ではプログラミングやソフトのつくり方などを学びました。いつも教室の前方の席に座って、少しでも知識を吸収しようと努めていたように思います。勉強も楽しかったですね。 その甲斐あってか、情報学科に200人程の学生がいる中で、成績上位に入っていたようです。3年生になってゼミを決めるときに、成績の良い学生から順に希望する研究室を選べたんですけど、僕も望んでいたゼミに入ることができました。
勉強以外の思い出は、学食のおばちゃんにいつも笑顔で挨拶して仲良くなって、こっそり大盛りにしてもらったことですね(笑)。
――勉強にもまじめに取り組まれていたのですね。一方で、学生時代にもっとやっておけば良かった、ということはありますか?
北田:当時、大学が舞台のドラマが流行っていて、キャンパスライフに憧れる気持ちはありました。卒業した今となっては、学生のうちにもっといろいろな経験をしておけば良かった、という思いもあります。友人と海外旅行に行きたかったな、とか。 ただ、僕はスポーツをするために近大に進学した、という気持ちが強かったので、競技に没頭できたことは良かったと感じています。後悔がないかというと難しいですが、それでも当時を振り返ると、一生懸命やっていたな、と思いますね。
ただ、競技面で後悔していることがあるんです。僕は400mハードルにも取り組んでいたのですが、近大には他にハードルをやっている選手が少なくて、練習環境はあまり良いとは言えませんでした。そのため監督が「他の大学に頼んであげるから、合宿に行っておいでよ」と言ってくださったのですが、おじけづいて断ってしまったんです。僕は割と小心者で、一人で他の大学を訪ねて武者修行するのが不安で怖かったんですね。今となっては「失敗しても良いから行けば良かったな」と思います。僕らしいというか、本当に気持ちが弱かったんですよ。
「可能性」と「ワクワク」に魅了され、30歳でプロアドベンチャーランナーへ
極寒の地をソリを引いて走る様子
――卒業時に引退を選ばれたのはなぜですか。
北田:大学時代は懸命に練習をしたのですが、その先、スポーツ選手としてのキャリアが繋がらなかったためです。今でこそ陸上の短距離種目でも実業団チームがありますが、僕の頃はあまりなかったですし、あってもほんの一握りの人しか入れない状態でした。僕の競技成績では到底そこに到達できなかったので、大学を卒業したらアスリートを辞める選択しかなかったんです。
――卒業後は一般企業に就職されましたが、それからどういう経緯でアドベンチャーマラソンの世界に飛び込まれたのでしょうか。
北田:会社員として働くことも、おもしろくはありました。ただ、学生時代にスポーツに打ち込んでいた記憶がどうしても頭から離れなくて、会社員の自分と比べてしまうんですよね。「今僕は本当に燃えているのか」と自問自答すると、本心から「Yes」とは言えなかった。それで何か熱中できることを始めようと思ったんです。これまでの人生のほとんどを走ることに費やしてきたので、マラソンやトライアスロンに挑戦しました。ただ、「これだ!」という手ごたえは感じなくて。29歳の時にインターネットで「スポーツ 過酷」などのキーワードで検索していたときに、アドベンチャーマラソンを知ったんです。そのとき何か「ビビッ」とくるものがあったんですよね。自分が燃えるように生きる道はこれなんじゃないか、と強く感じたんです。
ゴビ砂漠にあった屍。死を感じ、自分の命を精一杯生きようと誓った。
――改めてアドベンチャーマラソンとはどういうスポーツか、教えていただけますか。
北田:大自然の中、例えばジャングルや急峻な山道、炎天下の砂漠、零下50度にもなる南極大陸などの過酷な環境下で、走ってゴールを目指すスポーツです。距離は250km前後の大会が多いですが、長いものでは1600kmに及ぶレースもあります。何日もかけて、必要な食料やサバイバル道具などを自分で背負いながら進むんですよ。
――イメージとしては、厳しい自然の中を稚内から鹿児島まで走るようなものでしょうか。一般人には考えられない話です。「自分を追い込む」という意味では、例えばトライアスロンの長距離レースなど他にも過酷なスポーツがありますが、アドベンチャーマラソンのどこにそんなに惹かれたのでしょうか。
北田:一番大きかったのは「可能性」です。アドベンチャーマラソンは日本ではまだ誰もトライしていなかったので、自分が道を切り拓いて「パイオニア」になれるチャンスを感じました。また大自然を相手に自分の限界が試されるレースで、大きく成長できるのではないかと思ったのです。 トライアスロンやマラソンでも、長い距離を走るレースはありますが、そこにはもう多くの先人がいたんですよね。それに舗装された道路を延々と走ることに、僕はあまり冒険心を抱けなかったんです。一方でアドベンチャーマラソンには、ワクワクするものがありました。 競技人口が少ないスポーツなので、正直、将来仕事につながるのか、そのレースで食べていけるのか、不安を感じていました。でも先が見えない分、これから広がっていくのでは、という希望も感じていました。それで思い切って仕事を辞めて、アドベンチャーランナーとして生きる道を選んだのです。
失敗があるからこそ成長がある。すべてを受け入れて楽しみたい。
――短距離と長距離では、使う筋肉がまったく違うと聞きます。短距離選手だった人が持久系の種目で活躍されるのは本当に異例だと思いますが、身体やメンタル面など、一番困難に感じたことはなんでしょうか。
北田:できない自分を認めることですね。もともと僕は長距離走に向いていないんですよ。向いていたら学生時代に長距離を選んでいたと思います。不得意なことを30歳から始めたので、筋肉云々というよりも、自分の不甲斐なさを受け入れることが一番難しかったです。
――そうした困難を乗り越えられた原動力はなんでしょうか。
北田:原動力は「後悔したくない」という気持ちです。学生時代にスポーツ漬けの日々を送りましたが、振り返ると「もっとできたんじゃないか」という思いがあります。だから今回は「本当にやりきった」と、完全燃焼と言えるところまでやりたいという気持ちが、大きな原動力になっています。
――過酷なレースに挑む中で、失敗を怖れることはありませんか。強いメンタルを育てるため、あるいは失敗したときに気持ちを保つために、どのような考え方をされているのでしょうか。
北田:僕は「失敗して当然だ」と思って挑戦していますので、怖いという気持ちはないんです。失敗する前提でやっているというか。もともと精神面は強くはなかったです。でもレースを通して、メンタルやモチベーションの保ち方を学んでこられたと思います。経験を重ねた今だから言えることですが、失敗があるからこそ成長できるので、つまずいても受け入れて楽しめるようになったら、少しずつ強くなれるのではないでしょうか。
日本人初の世界7大陸アドベンチャーマラソンを走破した時の写真。
2017年、Ultra Africa Race(モザンビーク/サバンナ 5日間220km)にて。
――そうしたマインドで挑戦を続けて、日本人では初となる世界7大陸のアドベンチャーマラソンを走破されました。北田さんは「限界を超えた先にある景色を見たい」と言っておられましたが、最後にゴールにたどり着いたとき、どんな景色が広がっていたのでしょう。
北田:言葉で伝えるのはとても難しいです。だから、ゴールしたときに感じたことをお話しすると、これまでの人生で感じたことの無い「幸福感」が湧き上がってきました。青春でしたね。30歳から4年間かけて7大陸を走破する中で、もちろんつらいことも苦しいこともたくさんあった。でも嬉しいことや喜びも同じくらいあったんです。自分が決めた道を進んで、尋常ではない辛さと喜びを味わえるって、なかなかないですよね。しかも世界中の人たちと競い合って、誰もやっていないことができるっていうのはね、やはり嬉しかった。4年間、すべてがおもしろかったです。
世界7大陸踏破のその先へ
近大サミット2017にて近大リーダーアワード「教育・研究・スポーツ部門賞」を受賞。
――これからどんな世界に挑んでいきたいですか。
北田:アドベンチャーマラソンには、難易度が高く自然環境が厳しい場所でのレースがまだたくさんあります。そこにチャレンジしていきたいですね。
――最後に校友会の皆様や読者の方にメッセージをお願いします。
北田:近畿大学の卒業生がこんなことにチャレンジしているんだと、元気になれたり、楽しみにしてもらえるような挑戦をこれからも続けていきたいと思います。誰もやっていない道を切り拓いていきます!
取材・文:笑屋株式会社
写真:井原完祐
企画・編集:近畿大学校友会
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