2025.06.20
【パラ陸上競技 プロスポーツ選手・秋山正輝氏】困難を乗り越えたその先にー ~人生と競技に挑むパラアスリートの軌跡~
- Kindai Picks編集部
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プロパラアスリートである秋山さんは20歳の時に事故に遭い、人生に大きな転機が訪れました。その後、近畿大学通信教育部で学びながら新たな道を模索し、障害者スポーツに挑戦。今では、プロスポーツ選手として活躍しています。秋山さんの経験を通して、困難を乗り越え、前向きに進んでいく姿勢についてお話しいただきます。
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――事故の前からやり投げをされていたのですか?
秋山:実は、もともとは自転車競技をしていました。小学校・中学校時代は水泳に取り組んでいて、市の大会では優勝も果たしましたが、全国規模の大会では勝つことはできませんでした。
中学のときに自転車に興味を持ち始め、国道でレースのような恰好をした選手を見かけて、自分も挑戦してみようと思ったんです。実際にやってみると、思いのほかついていけたので、これがきっかけで高校では自転車競技に本格的に挑戦しようと決意しました。 そのため、高校は自転車競技の強豪校を選びました。私が1学年上の先輩からは、プロ選手を5人も輩出しているという実績がある学校でした。私自身も、高校2年生、3年生の時にはインターハイに出場することができました。 卒業後は、オリンピック出場を目指して実業団に入団し、競技活動を続けました。

――その後、不慮の事故に遭遇されたと伺っています。どのような状況だったのでしょうか?
秋山:事故に遭ったのは、私が20歳の時、1985年12月27日のことです。その日は、ボーナスで注文した最新の自転車の機材が届き、試走していた夜でした。しかし、その途中で飲酒運転の車と正面衝突してしまいました。相手はそのままひき逃げし、私は一週間ほど意識不明の状態に陥りました。
事故の影響で脳を損傷し、頭蓋骨の半分を失い、左半身が麻痺しました。当時、私は国際ロードレースの出場資格を得ていたため、どうにかして大会に出たい一心でリハビリに打ち込みました。しかし、いくらリハビリを頑張ったところで、またレースで走るなんて到底不可能だったのに、それを理解しようとせず、気が動転していた日々が続きました。幸い、優秀な医師の手術のおかげで半年間で退院することができましたが、その後は以前のように自転車レースを走れる状態にはほど遠く、まるで抜け殻のような日々を過ごしていました。自転車がすべてだった私は、大きな喪失感に苦しみ続けました。

――近大通信にはどのように出会われたのでしょうか?
秋山:後遺症の影響で工場での仕事が困難になり、新たな道を探さなければならない状況に追い込まれました。そのような中で、『事務の仕事なら自分に向いているかもしれない』と感じ、独学で勉強を始めました。そして、昭和63年11月には、日商簿記3級に合格しました。 事務職を目指す過程で、大卒の資格が必要であることに気付きました。さまざまな大学を調べている中で、新聞広告で近大通信を見つけ、入学を決意しました。
――学習の中で印象に残っていることはありますか?

秋山:テキストが届いた時、その膨大な量に驚きました。試験のために神戸や姫路に通う日々もあり、忙しい毎日でしたが、その中で得た学びはとても貴重な経験となりました。 勉強もトレーニングも大切なのは、やったことをしっかり記録することだと思います。私は1日4時間勉強することを決め、毎日の学習時間を記録していきました。職場に1時間早く出社して、昼休みも勉強の時間に充てました。 最初は「何をしているのか」と白い目で見られることもありましたが、次第に「今日はどの科目を勉強しているの?」と聞かれるようになり、周りの理解も得られるようになりました。 どうしても勉強が進まない日があれば、その分を週末にリカバリーするようにしました。これだけ勉強を重ねたおかげで、試験の際には解答が自然に出てくるようになりました。
また、在学中は学習会活動にも積極的に参加しており、学習会の存在は非常に大きかったと感じています。情報交換をしたり、旅行に行ったりと、参加することが楽しみでもありました。当時、最も苦労した民事訴訟法を猛勉強した結果、学習会活動の一環としてその科目の試験対策講師を務めたこともありました。つまり、勉強を進める中で学習会に参加することで多くの交流が生まれ、その幅を広げるきっかけとなったと思っています。近大通信でのさまざまな出会いや交流は、学習会なしでは語れません。それは現在の梅友会にも続いています。 こうした努力の積み重ねが実を結び、短大も法学部も、所定の期間内に無事卒業することができました。

――競技復帰への第一歩となったのはどのようなきっかけでしたか?
秋山:ある日、偶然「大阪府障害者スポーツ大会」のチラシが目に入りました。野球が好きで肩には自信があったので、ソフトボール投げにエントリーしてみたところ、いきなり優勝することができました。 大阪府代表になったのですが、事故の後遺症で足を手術し、走れなくなりました。そのため、走不能の部で国体に出場しました。結果は大会新記録で優勝。その記録は今も破られていません。このように様々な大会で結果を出していく中で陸上競技連盟からやり投げを勧められました。 当時32歳でした。

――やり投げではどのような練習を積み重ね、記録を伸ばしていったのですか?
秋山:やり投げを始めた当初は、うまく投げられず、やりが横を向いてしまいました。身長が高くないため、投げる際にやりが後ろについてしまう難しさもありました。 それでも練習を重ね、始めて2~3年で日本記録を更新しました。大会の記録が伸びるたびに、これまでの努力が報われたと感じました。
――特に印象に残っている大会や瞬間はありますか?
秋山:初めての海外遠征、フィンランドでの大会がとても印象に残っています。 フィンランドはやり投げが国技とされるほど盛んで、一投ごとに観客から歓声が上がりました。そんな熱気ある舞台で競技できたことは、一生の思い出です。

――近畿大学通信教育部での学びが、競技にどのように役立っていますか?
秋山:参考文献を探し回る苦労も多かったですが、その経験が目標に向かって粘り強く努力する姿勢を培いました。 この忍耐力は、競技生活にも通じるものがあります。
――現在、プロスポーツ選手としてスポンサー契約をされたと伺いましたが、どのようなことがきっかけだったのでしょうか?
秋山:障害者アスリート専門サイトにプロフィールを登録していましたが、なかなか声がかからず苦労しました。今年やっと59歳にして契約が実現し、競技に専念できる環境が整いました。企業側も単なる宣伝ではなく、パラスポーツ支援の一環として取り組んでおり、その活動の一端を担えて嬉しいです。
――これからの競技生活や新たな目標について教えてください。
秋山:障害や年齢を乗り越え、同年代の星となりたいと思っています。今も早朝から練習を続けていますが、体力が衰えても挑戦を続けることで、若い選手にも希望を与えたいです。
――最後に、通信教育で学ぶ方々へメッセージをお願いします。
秋山:通信制の学びは、自分との戦いです。 強い思いがないと、卒業するのは難しいと感じます。 進捗をしっかりと検証しながら、着実に進んでいく。 その達成感こそが原動力となり、勉強を続ける力になります。 私自身も、勉強時間を一覧にして進捗を可視化し、 ひとつひとつの目標を達成していくことで、確実に結果に繋がりました。 時間が経つうちに、文章も要約できるようになり、 徐々に短くてわかりやすい表現ができるようになりました。 この経験を通じて、何事も着実に進めることの大切さを学びました。 これが、今の私にとっての大きな財産となっています。
取材・文:近畿大学通信教育部学生センター
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