2022.05.27
コロナ後のV字回復は可能か!?グルメ杵屋・椋本社長が語る外食チェーンの苦境と未来【突撃!近大人社長】
- Kindai Picks編集部
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コロナ禍で苦境に立たされている飲食業界の未来とは? 「突撃!近大人社長」第11回目は、手打うどん専門店「杵屋」をはじめ、和食や洋食、エスニックなど、さまざまな飲食チェーン店を経営するホールディングカンパニー「株式会社グルメ杵屋」の椋本充士社長に、経営学部商学科1年生の宍戸一輝さんがインタビューしました。
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大阪市住之江区にある株式会社グルメ杵屋本社。
「杵屋」「そじ坊」「丼丼亭」をはじめ、和食や洋食、エスニックなど、さまざまなレストラン事業383店舗(フランチャイズを含む)※を展開する株式会社グルメ杵屋。
※コロナ禍で80店舗を閉店し383店舗に(2021年3月31日時点)。また、現在レストラン事業は2015年に新設した株式会社グルメ杵屋レストランが運営。
株式会社グルメ杵屋は、1967年に「両国食品」として創業し、1986年に株式会社グルメと合併して現在の社名に変更。機内食事業や、業務用冷凍食品製造事業、大阪・大国町にある「木津市場」の運営など、さまざまな企業の子会社化・業務提携を通じて事業を拡大した、東京証券取引所プライム市場上場企業です。
ところが、2008年から2期連続、売り上げは赤字に。2010年に就任した現社長の椋本充士社長は「V字回復」を宣言し、これまでの経営方針を一変、見事業績復活を果たしました。
そんな椋本充士社長は、近畿大学商経学部の卒業生。卒業後は家業である「グルメ杵屋」ではなく、まったく別の飲食チェーンに籍を置いていたという椋本社長に、大学時代から現在にいたるご経歴を伺いました。
マクドナルドに憧れてうどんチェーン店を開業!?
1961年生まれ。グルメ杵屋創業者、椋本彦之氏の長男として生まれる。近畿大学商経学部(現・経営学部)商学科を卒業後、大和実業(現:ダイワエクシード)に就職。1990年、グルメ杵屋に転職。ベンチャー事業部、経営戦略室・開発部門等を経て、2001年には、取締役に就任。その後も、業態確立部門、店舗設計、商品開発とさまざまな部門を経験し、2010年4月、代表取締役に就任する。
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本日はよろしくお願いします! つい先日、グルメ杵屋さんの「GELATERIA solege(ジェラテリア ソレージェ)」に、ジェラートを食べに行きました。
ありがとうございます。「GELATERIA solege」は、去年できたばかりの新しいお店なんですよ。
すごくいろんな種類の飲食店を展開されてますよね。どんな成り立ちで、今の「グルメ杵屋」が誕生したのでしょうか。
近大マスクをつけてインタビューさせていただきました。
当社は、国鉄社員食堂などの給食委託請負業務を行う「両国食品」という会社として、1967年にスタートしました。初代社長だった私の父親が、いわゆる「飲食チェーン店」をはじめたくて、まず資金集めに……ということで創業した会社でした。まだ、日本に飲食チェーンという業態はほとんどなかった時代です。
一店舗目が成功したから店を増やす……ということではなく、最初からチェーン店を目指していたんですね。
私の父親はもともと米屋を営んでいたんです。食の欧米化も進んでいない時代で、量販店やネット販売もないので、米屋というのはお店を開けていれば収益があったそうです。でも、近所の人が買いにくるだけなので、それ以上は広がらない。父は、もっと事業を大きくしたいと思っていました。
そこからなぜ、うどんのチェーン店を?
当時、ダイエーの創業者である中内㓛さんと付き合いがあって「海外のスーパーを視察するためにアメリカに行くので、一緒に来ないか?」と誘われたそうです。いわゆる、視察旅行ですね。その旅行で日本出店前のマクドナルドを知り、街のいたるところに同じ「M」のマークの看板があることに衝撃をうけたそうです。「これを自分で、日本でもやりたいな」ということで父が考えたのが、うどんのチェーン店でした。
ハンバーガーではなく……? しかもお米屋なのにうどんですか?
パンを食べ慣れていない父にとって、ハンバーガーはピンとこなかったようで(笑)。同じ小麦でも「大阪といえばうどんやろ!」と思ったみたいです。
奈良ダイエーにあった「杵屋」一号店。
なるほど。まさか、マクドナルドに憧れて杵屋が誕生したとは……。
そうなんです。そして、マクドナルド日本上陸と同じ1971年に、杵屋第一号店をオープンしました。最初は大阪ではなく奈良のダイエーに出店したんですが、その当時の客単価が300円前後だったにも関わらず、1日の売り上げは100万円近くあって。開店前から長蛇の列ができていたそうです。
なんでそこまで人気があったんでしょう?
当時、家庭で食べるのは、茹で置きの伸び切ったうどんが当たり前で、正直美味しいものではなかった。杵屋は、讃岐の手打ちの技法を取り入れ、店頭でうどん打ちの実演をしたんです。「麺は讃岐、だしは関西風」という打ちたて茹でたてのうどんを提供するスタイルで人気を得ました※。
※大阪は江戸時代からだし文化と共にうどんが発展したが、大阪では「コシのない柔らかいうどん」が当たり前だった。杵屋は、関西風だしに讃岐の麺を合わせたことが画期的だった。
そこから、どんどん店舗数を増やして、念願だったチェーン店の営業を実現されたんですよね。
ちょうど、国鉄が駅舎を、商業施設の機能を持った「駅ビル」にリニューアルしていた時代。その計画に、我々グルメ杵屋もお誘いいただいて、日本各地にお店を増やしていきました。
現在の社名になったのは、いつごろなんですか?
1981年に、「大阪料飲経営協会※」という集まりで株式会社グルメの社長に出会い、意気投合したそうです。当時、グルメはサンドウイッチ、オムレツ、カレーの専門店を経営していたので「うどん屋とサンドイッチ屋が合併」という見出しで新聞でも取り上げられたそうです。
※大阪料飲経営協会:現在の「一般社団法人 大阪外食産業協会」。大阪の外食産業の健全な発展と近代化・合理化を目指す、一般社団法人。2021年3月31日時点で、532社もの飲食店代表が会員を務める。
現在の幅広い展開は、意気投合の結果だったんですね。
現在は子会社を含め、うどん専門店やそば専門店、洋食屋やラーメン屋、機内食事業や業務用冷凍食品製造事業、ほかには大阪・大国町にある「木津市場」の運営など、多岐にわたる事業を行っています。
従兄弟は国体選手! スキーに明け暮れた椋本社長の学生時代
幼少期や学生時代の話を聞かせてください。
スキーの思い出ばかりですね。幼いころから、年末年始は必ず親戚と一緒にスキー旅行に行っていましたし、高校もスキーをするために進学したようなものです。当時、大阪でスキーといえば近大附属高校スキー部が有名で、国体にも出ている一つ上の従兄弟が近大附属高校に進学したんです。その流れで、叔父に「お前も、近大附属高校に入るんやろ?」と勝手に決められていて……。
そんな経緯で入学されたんですね(笑)
その上、叔父には「1年生で新人賞をとらなあかん!」とプレッシャーまでかけられて。実際に新人賞はとれましたが、2年生の時にすごく太ってしまって、スランプに陥りました。3年生では体重を16kg落として府大会で2位と3位をとることができましたが。
学生時代の椋本社長。
16kgも! すごい根性です……。ちなみに、勉強の方はいかがでしたか?
勉強は全然好きじゃなかったですね。けど高校3年から、周りの友達につられて自分でもやってみたんです。それまで成績は「下から数えて3番目」が私の定位置だったのに、期末テストでは上位3割に入りました。「俺、やれば勉強もできるやん」って自分で感心しましたね(笑)
大学でもスキーは続けられたんですか?
近畿大学の商経学部商学科に進学して、スキー部に所属していました。でも、選手ではなくマネージャーとして入部させてもらったんです。近大スキー部といえば、強豪校で選手のレベルも高い。雪国育ちの方々がはるばるスポーツ推薦で入学してくるんです。私からしたら、雲の上のような存在。マネージャーとして貴重な経験をさせてもらいましたね。
印象に残っているエピソードはありますか?
当時のスキー部は、まさに体育会系という感じで、年功序列が絶対。例えば、後輩の方が成績が良くても、最後の大会出場は先輩に譲らなければならない……という暗黙のルールがあって。でも、ある4年生の先輩が「俺たちの目標は大会で勝つことで、年齢なんか関係ないやろ!」と、ルールを壊したんです。それ以降スキー部はますます強くなって、数年後にはじめてオリンピック選手が出ました。
部活内の革命だったんですね。
当時の雰囲気の中で、あの主張をするのはかなり勇気のいる行動だったと思います。その先輩がいなかったら、なし得なかった功績です。リーダーの判断が、後々の組織の繁栄にも影響することを学んだ出来事でした。
入社のきっかけはバニーガール!? 飲食一筋……他社勤務から「グルメ杵屋」の代表に就任するまで
大学卒業後は、そのままグルメ杵屋に就職されたんですか?
私はそのつもりで、父親に「就職、どうしようかな?」と相談したんです。「うちにきたらええがな!」と言ってもらえることを期待して……。そうしたら「そうか、お前も就職か。あのな、人生は楽しいぞ! 自分の思ったようにやりなさい」と言われて。「あかん、路頭に迷ってもうた……」と思いましたよ(笑)
その後、就職活動をされたんですか?
はい。いろんな業界の会社説明会に足を運びました。その当時、飲食業界の会社説明会は、ごはんを食べさせてくれるところが多かったんですね。フレンチレストランでワインを出してくれるところもあって「こらーええな!」と、飲食業界の説明会ばかり行くようになりました。
ごはん目当てで説明会に行ってたんですか(笑)
最終的に就職を決めた大和実業※でも、会社説明会の後にお店に連れて行ってもらったんですが、そこはなんと、お店にバニーガールがいて。大和実業は、今でも「エスカイヤクラブ」という会員制レストランを経営されているんですが、バニーガール姿のホールスタッフさんが接客する店なんです。当時、私は大学生。その衝撃たるや、凄まじかった……。そのまま就職を決めました(笑)
※2010年、ダイワエクシードに社名変更
えっ、バニーガールにつられて就職したってことですか?
初任給が高かったことも理由ですけどね。内定はいろんな会社からいただきましたが、大和実業は当時では破格の初任給でした。入社後はレストランの店長や、当時阿倍野にあったディスコの店長を務めましたよ。当時の大和実業は、大型チェーン居酒屋のはしりとして「やぐら茶屋」という店をオープンして、バブル時代を象徴するようなCMでも話題になっていました。
そこから、どうしてグルメ杵屋に戻られたんですか?
勤続数年目のある日、副社長に「明日の昼、本社に来い」と呼び出されたんです。「俺、なんか悪いことした!?」なんて思いつつ、出向いたら「ご実家に戻らなくていいんか?」と聞かれまして。ちょうど、杵屋とグルメの合併が飲食業界で話題になっていた時だったんです。大和実業の代表は、当時大阪料飲協会の会長も務めていたので、私の父親と繋がりがあり、いつか家業を継ぐために戻ると思っていたんですね。
それで、なんて答えたんですか?
父親からも「自分の思ったようにやりなさい」と言われましたし、私は「一生、大和実業さんのお世話になるつもりです!」と宣言しました。その時は副社長も「わかった」と納得してくださったんです。でも数年後に、また私の所属していた店舗に電話がかかってきて……。
また呼び出しの電話が(笑)
その時はグルメ杵屋が大阪証券取引所2部に上場することが話題になっていたタイミングでした。私はまた「一生大和実業さんの……」と答える気でいましたが、とうとう副社長に「ご実家に帰りなさい。これは業務命令や」と言われてしまいまして(笑)
そのタイミングで、大和実業さんを退職されたんですか?
いえ、その時は「まだ大和実業に残りたい」と副社長に伝えました。副社長も「わかった。なら、大和実業にいる間は、教えられるだけのことを教える」とおっしゃってくださって、財務部や本部の教育部門など、いろんな部署で、経営の基礎をたくさん教育していただきました。本当にお世話になりましたね。当時の副社長とは、今でも交流があります。
素敵なお話です。その後、グルメ杵屋に入社されたんですよね。
大和実業さんを退社後、父親に「グルメ杵屋に入社したい、どうしたらいい?」と伝えました。そしたら今度は「面接に行ったらええんちゃう?」と(笑)。仕方がないので、採用向けの電話番号に電話して「椋本充士と申しますが、御社の面接をうけたく、連絡いたしました」と伝え、履歴書を持って面接に挑みました。
えっ! 普通に正規ルートで面接をうけたんですか!?
はい、素性も明かさず向かいました。面接中、人事課長が「君、ちょっとここで待っててくれるかな?」と言い残し部屋を出て行ったので、どこに行くのか見守っていたら、社長室に消えていったんですね。しばらくすると部屋の方から「人事課長やろ! 君が決めなさい!」と、父の声が聞こえてきて(笑)。おそらく「息子さんが面接に来ているようですが……」と、相談にいったんでしょうね。今思うと、課長もさぞ困ったと思います。なので、親のコネではなく、普通の中途採用で入社することになりました。
驚きの入社エピソードです(笑)
創業時からの経営方針を一変。就任後、すぐにV字回復を果たした新社長の経営手腕
その後、2010年に代表取締役に就任されたんですね。就任当時はどんなお気持ちでしたか?
私が就任する直前、2008年から2009年まで、2期連続で赤字に陥ってしまったんです。実は1990年あたりから、業績はじわじわと右肩下がりだったんです。前年度と比べ、売り上げがマイナス1%でも、繰り返すと20年後には20%ダウンになりますからね。「経営方針を一新しなければ」と考えていました。
創業者である父の時代から、グルメ杵屋の経営方針は「人が集まる場所に出店する」ことでした。たしかに、人が集まる場所に出店すれば、店を開けているだけである程度は自動的に集客できますからね。でも、それだと現状に甘んじてしまい、マニュアル通りの接客や店づくりで完結してしまう。
そこからどう経営方針を変えたのでしょうか?
私が長年お世話になった大和実業さんは、グルメ杵屋の方針とはまったく違って「お店そのものに付加価値をつける」という経営方針だったんです。だから各店舗の店長は、必死で自分の店だけのオリジナルの価値を作り出そうとしていました。そこで、グルメ杵屋でも「まずは店長を元気にする」という方針を打ち出し、社員教育費に以前の倍以上の金額を注ぎ込みました。
倍以上!? 成果はありましたか?
今までとはまったく違う経営方法をお願いしたので、はじめは困惑の声も上がりました。でも、だんだんと「お客様に店舗をほめられた」「スタッフに”店長が上司で良かった”と言ってもらえた」など、店長たちから明るい意見が届くようになり、店舗が元気になっていってるのを実感できたんですね。その後は、マニュアル経営からスタッフ一人ひとりが活躍できる職場環境が整ったおかげで、業績のV字回復が実現できました。
赤字は47億円……。コロナでうけた打撃と、新たな出会い
現在はどうでしょうか? 新型コロナウイルスの影響で、飲食業界は大打撃をうけたと思います。
2020年の4月に緊急事態宣言が発令されて、4〜5月の2ヶ月で、30億円くらいの赤字になりました。2020年の年間では47億円の赤字。入国制限により機内食事業の売り上げもほとんどなくなりました。助成金などいろいろ策を講じましたが、結局現在までに80店舗ほど、閉店に追い込まれてしまいました。
年間47億円も……!
2021年に開催予定だった「食博覧会・大阪2021」の開催中止もこたえましたね。私は2019年から2020年の間、大阪外食産業協会の会長を務めていたんですが、2018年からこの博覧会の準備を行ってきました。入場者数75万人を目標とした4年に1度の大規模なイベントです。2021年は10回目の記念開催となる予定でしたが……もちろん中止せざるを得なくなりました。
何年もかけて準備をしてきた大規模なイベントが中止になるのは、本当に辛いですね……。
でもね、コロナ禍でうれしい巡り合わせもあったんです。機内食事業を通じて知り合った、香港在住のクレムソン・ツァイ(2022年1月、取締役に就任)という人が、日本に移住することになり「グルメ杵屋で働きたい」と名乗り出てくれたんです。彼はすごく優秀で、世界最大級のメガバンクに勤めていて、機内食のコンサルティングを行うチームのリーダーもしていた人物です。
そんなすごい人が……!
「GELATERIA solege」内覧会の様子。
冒頭でお話しした、ジェラート専門店の「GELATERIA solege」は彼のアイデアではじめた事業なんです。来日してすぐ、彼が大阪の街を散策してたまたま見つけたのが「リカリカ」というジェラート屋。「僕は本場イタリアやいろんな国でジェラートを食べたことがあるけど、あの店のジェラートは世界一美味しい。ぜひビジネスパートナーに招き入れるべきだ」と言われまして(笑)
そこから、どうやってビジネスに繋がったんでしょうか……!?
スイーツ専門店は創業以来初の試みでしたが、機内食事業で開発した”カットフルーツを20日ほど劣化させずに保存する技術”を生かしてみたかったんです。さっそく「リカリカ」のオーナーに打診しました。「これはすごい技術だ」と言っていただいて、製造監修に参画していただくことになりました。
パイナップルのジェラートを食べたんですけど、めちゃくちゃ美味しかったです。そんなすごい技術が使われているんですね。
加熱処理をしない、生フルーツのみを使ったジェラート。
その後、日本初のプリン専門ECサイト「ときめく!プリンお取り寄せ」も開設しました。日本各地の有名店のプリンが、約70種類購入できます。いずれはありとあらゆる食品を取り扱う「食のプラットフォーム」を設立するのが、私たちの野望です。
コロナ後、大阪の「食」はどうなる? 社長が見る外食産業の未来とは
今後の展望や、飲食業界の未来についてどうお考えですか?
2025年に開催が迫った「大阪万博」に、大阪外食産業協会でパビリオンを出店する計画があるんです。これが実現できれば、大阪の外食産業が大きく飛躍するきっかけになるんじゃないかと思います。コロナでたくさんのお店がなくなったのは痛手でしたが、飲食業界は参入障壁が低いからこそ、またすぐ時代に沿った新しいお店がたくさん出てくるんじゃないかな。さらに万博を通して、新たな関西の食文化が生まれればいいなと考えています。
最後に、大学生や若い世代に向けてメッセージをお願いします。
近畿大学の「学生主催サミット」など、大学にお邪魔させていただく機会があるんですが、毎回「最近の若い子たち、やるなあ!」と思いますよ ! 自分が大学生だった時と比べても、今の大学生はいろんなことにチャレンジしているところが垣間見えて、将来が非常に楽しみだなと思っています。何かを生み出すパワーというのはチャレンジ精神が源になるわけですが、やっぱり若い世代には敵いませんね。
現役大学生としては、うれしいお言葉です……。
昔は「いい大学に入って、いい会社に入る」という人生設計が当たり前の時代でしたが、今はそうじゃない。30代になってから、また大学に入学するというのも、私はありだと思います。日本は、失敗してもやり直せる時代になってきました。だから、大学生の皆さんにも勇気をもって、いろんなことにチャレンジしてもらいたい。
僕も、今しかできないことに挑戦してみたいです。
勉強だけでなく、学生時代から企業のプロジェクトにどんどん参加すると良いと思いますよ。私たちも、先ほどお話した「食のプラットフォーム」の実現のためにも、現役大学生のお力をお借りしたいと考えています。「こんなことがやりたい」というアイデアを持ち込んでもらうのも大歓迎です。
実現が楽しみです! 椋本社長、本日はありがとうございました!
対談を終えた宍戸さんの感想は?
緊張して挑んだインタビューでしたが、おしゃべり上手な椋本社長のおかげで、ひたすらに楽しい時間を過ごせました! 社長が大和実業さんでつんだ経験が、後のグルメ杵屋の業績V字回復に繋がった話がとても興味深かったです。僕も、窮地に陥った際に過去の経験を生かすことができる人間になりたいです。僕は大学1年生なので就職はまだまだ先のことですが、椋本社長のように、いろんな経験がつめる企業へ就職できるよう、就活も頑張りたいです!
取材・文:トミモトリエ/渡辺あや
写真:木村華子
編集:人間編集部
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