2020.04.20
【炭治郎はブッダになる!?】『鬼滅の刃』を「ゾンビ×仏教」で考察すると、新発見だらけだった
- Kindai Picks編集部
14768 View
アニメ化もされ大ヒットした週刊少年ジャンプの人気漫画『鬼滅の刃』。なぜあんなに人気が出たのか?どんな魅力が読者を引きつけるのか?アニメ好きのライターが、同じように「鬼滅が大好き」というお坊さん&コンテンツ分野の研究をしている先生との対談から、作品のさらなる魅力を探ります!
この記事をシェア
数々のアニメを見てきた筋金入りのオタクな私。最近、一番「コレは!!」と感じたのが『鬼滅の刃』です!
※『鬼滅の刃』
作・吾峠呼世晴の漫画。週刊少年ジャンプにて2016年から連載がスタート。家族を鬼に殺された少年・炭治郎(たんじろう)が、鬼になってしまった妹を救い、家族の無念を晴らすために「鬼殺隊」の隊士として鬼と戦うバトルファンタジー。2019年4月から2クールにわたってテレビアニメが放送され、劇場版も公開予定。コミックスの累計発行部数(電子書籍を含む)は2020年1月末時点で4000万部を超え、書店での完売が続出するなど大ヒット作品となった。
恥ずかしながら私はアニメ化するまではチェックしていなかったのですが、アニメが放送開始されてからからは毎週一喜一憂しながら見続け、放送終了後は単行本を一気読みしました。
何が最高かって、「鬼」と戦う設定自体はこれまでの作品にもあったと思うんですが、敵として描かれる鬼にもドラマがあることなんですよ……! もちろん味方として登場するキャラクターも一人ひとりに奥行きがあって「ただ優しい」「ただ強い」だけではないんです。キャラクター同士の関係性から、家族や仲間といった存在の大切さを思い出させてくれるのが、この『鬼滅の刃』の魅力なんですよね……!
と、鬼滅愛を募らせていたところ、Twitterでこんな興味深いツイートを発見!
鬼滅の刃、僧侶的にグッときたポイント
— 稲田ズイキ (@andymizuki) February 1, 2020
・全集中の呼吸が坐禅、瞑想みがある(もはや禅集中)
・不死川玄弥がバトル中にめちゃくちゃ阿弥陀経を唱えている
・悲鳴嶼行冥が僧侶で、しかも強キャラ
・不変を求めて永遠に執着しようとする鬼VS老い病いを抱えながら鬼を滅する人間の構図が完全に仏教
お坊さんをも惹きつけてしまう『鬼滅の刃』、すごいな……と思っていたところ、なんと、このツイートに現役の大学の先生が反応している……!
しかも、それが以前「オタクの聖地巡礼」記事でお話を聞かせていただいた、近畿大学でゾンビ学を研究している岡本先生だったのです。
今アツイ聖地は?「ゾンビランドサガ」や「天気の子」などアニメ聖地巡礼の歴史と進化を探る
そして、あれよあれよと僧侶と大学の先生による「仏教×ゾンビ」の鬼滅対談が決まってしまいました。オタク、フットワーク軽すぎない? ってか、「仏教×ゾンビ」って何それ?
いったいどんな展開になるんだろうか……!?
現在、新型コロナウイルスの影響でジャンプ本誌やコミックスも発売延期になっていますが、そんな今だからこそ改めて読み返したくなるような『鬼滅の刃』の魅力、探ってみたいと思います!
※この記事には『鬼滅の刃』の重要なネタバレが含まれています。ここから先は、コミックスを19巻まで読まれた方のみ読み進めることを推奨します。
近畿大学 総合社会学部 総合社会学科 社会・マスメディア系専攻 准教授
1983年生まれ。担当授業は「現代文化論」「情報と社会」など。博士(観光学)。専門は、観光社会学、アニメ聖地巡礼、コンテンツツーリズム学、ゾンビ学。著書に『ゾンビ学』(人文書院)、『アニメ聖地巡礼の観光社会学』(法律文化社)、『巡礼ビジネス』(KADOKAWA)、などがある。
僧侶。1992年に京都のお寺に生まれ、現在は副住職。同志社大学を卒業後、デジタルエージェンシーに入社し、2018年に独立。煩悩タップリな企画をやる「煩悩クリエイター」として活動中。集英社や幻冬舎のWEB媒体でコラム連載をしたり、お寺ミュージカル映画祭「テ・ラ・ランド」や失恋浄化バー「失恋供養」などリアルイベントも企画。
そもそも『鬼滅の刃』のどこが仏教にリンクしているの?
岡本先生、稲田さん、今日はよろしくお願いします! まず稲田さんには、今回の対談のきっかけとなった「仏教」と『鬼滅の刃』の関連について教えていただきたいのですが。
まず、鬼と戦う人間という設定が仏教なんです。
……ど、どういうことですか?
つまり! 鬼舞辻無惨は煩悩で、産屋敷耀哉は仏なんですよ。だから『鬼滅の刃』とは煩悩を滅するまでの話、つまり炭治郎がブッダになるまでの物語だということですよ!
なるほど……
いやちょっと待って、理解が全然追いつきません!
ごめんなさい、説明しますね。まず大前提として『鬼滅の刃』では、「阿弥陀経」というお経が唱えられてたり、「南無阿弥陀仏」と執拗に言っているキャラがいたり、仏教を少なからず意識している作品だと思うんですよ。
確かに、少年漫画にしては珍しいワードが多いかもしれないですね。
で、一番の仏教みを感じるところなのですが、鬼は病気にもならず老いもせず、首をはねない限り死ぬこともない存在として描かれてるんです。また、鬼のボスである鬼舞辻無惨は「不変」を好み、その手下である鬼も「欲」にとらわれています。
確かに。無惨は死を嫌がって鬼になる選択をしていましたし、響凱(※)はわかりやすく承認欲求の鬼でしたね。
※:響凱…コミックス3巻で登場する、鼓屋敷の鬼。
そうです。つまり、鬼というのは欲、仏教でいうところの「煩悩」のメタファーなんですよ。対して、人間は老いや病、死、つまり仏教でいうところの「四苦(生老病死)」から逃れることはできない存在と描かれている。鬼殺隊についてくり返し言われている「失った手足が戻ることもない」という言葉がそれを表していますよね。人間は常に変化し続け、留まることがない、仏教ではそれを「諸行無常」といって、それを悟った者が「仏」なんですよ。お館様や炭治郎はまさに仏の象徴なんです。
だって、一話の冒頭で「生活は楽じゃないけど幸せだな。でも人生には空模様があるからな。移ろって動いていく」なんて主人公に言わせる漫画なんてありましたか!? もうすでに仏に片足突っ込んでるじゃないですか?
なるほど、炭治郎は主人公のわりにギラギラしてなくて、どこか悟ったような考え方をするなと感じていました。
それから、炭治郎はかなり諸法無我(しょほうむが)みが強いですね。
またよくわからないワードが出た……! 何ですか、諸法……え?
作中では「無我の境地」や「透き通る世界」という言葉がありましたが、あれはまさに仏教でいう悟りの境地なんですよね。僕は、無我には大きく二つの意味があると思っていて、一つは「自分という存在を忘れるほど集中する」こと。もう一つは「他人と自分の境界がなくなること」です。炭治郎は集中しているのはもちろん、二つ目にあげた「他人と自分の境界」がどんどんなくなっています。
△2セットもそろってしまった「マイ鬼滅の刃・全巻セット」
確かに、蝶屋敷を出るときに「アオイさんはもう俺の一部だから」と言っていて、すごいセリフだなと思っていました。他人の痛みや悲しみを自分のものと同じように感じているような描写もありますね。
そうなんです! 炭治郎の精神世界の「光る小人」が青年の心に宿る描写なんて、めちゃくちゃ興奮しましたよ!! 仏教でいう「縁起(※)」ってこうやって表現できるんだって!!
※:縁起(えんぎ)…あらゆるものがつながって存在しているとする仏教の根本になる考え方
そういえば炭治郎の優しさも、物語の冒頭と比べて質が変わってきましたね。例えば、最初は「長男だから」と規範に縛られているようなシーンもありましたが、柔軟になってきているというか。
そうなんですよ! 実は初期の炭治郎はかなり固定観念が強いところもあるんです。思うに、大きな転換点は仲間の死だったと思います。誰かの存在によって自分が生かされていることに炭治郎が気づき始めた。読み直してもらったらわかると思うのですが、それ以降、炭治郎って自分と他人の区別が全くないんです! それってもうブッダ的な優しさなんですよ!
炭治郎は「2010年代の主人公」!
岡本先生は、『鬼滅の刃』をどのように読まれていましたか?
現実の日本社会と関連づけて考えると、90年代の善逸、ゼロ年代の伊之助、10年代の炭治郎って感じですね……。
先生からも不思議なワードが出てきた! ど、どういう意味ですか……!
説明します(笑)。評論家の宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』という著書で書かれていますが、「90年代=引きこもりの時代」、「ゼロ年代=弱肉強食の時代」であると解釈できるんです。例えば90年代を代表するコンテンツである『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジは典型的な引きこもりキャラクター。この考え方を応用すると、善逸が90年代的な特徴を持つキャラクターと考えることができます。善逸は気が弱くて戦いを好まず、自分の殻にこもりがちなキャラクターとして描かれていますよね。
確かに、そう言われると善逸とシンジは似ているかも。ゼロ年代はどんなコンテンツが多い時代だったんですか?
ゼロ年代になると、強い力を得た主人公がどんどん敵を倒していく構造の物語が登場します。例えば『DEATH NOTE』の夜神月や、『コードギアス 反逆のルルーシュ』のルルーシュのように、知略に長け目的のために手段を選ばず、自らの決断で敵をどんどん陥れていく。
確かに! 月とルルーシュは似ているなと感じたことがあります。
ゼロ年代は、社会的にも「新・自由主義」が浸透してきた時代。制度上はより自由が保障されるようになりましたが、裏を返せば「自己責任」の時代になったともいえます。
自己責任ですか?
つまり、自分の決断には自分で責任を負い、戦い続けていくことが求められるようになったんです。90年代の「引きこもり」が他者に判断を委ねていたのに対し、ゼロ年代の「強者」は、自分の判断でどんどん道を進んでいく。自分が傷ついても、誰かを傷つけても、自己責任です。これって「強さ」というものさしだけで世界を見てきた伊之助を表していると思いませんか?
なるほど、伊之助は強さが全てだと考えていて、それによって自分や他人が傷ついても構わないというキャラクターでしたよね。
そして、炭治郎はそのどちらでもない「2010年代の主人公」だと思うんですよ。
2010年代の主人公?
物語の最初、炭治郎は助けに来た富岡義勇から「生殺与奪の権を他人に握らせるな」と叱咤されます。これは、90年代的な「他人に委ねる」生き方に対する否定なんです。
あの義勇さん、めちゃくちゃ迫力ありましたよね……。
さらに、育手である鱗滝左近次のもとでは「判断が遅い」と叩かれます。これは、ゼロ年代的な“決断と自己責任”の世界に踏み込んでいくための儀式に見えるんですよ。
でも、鬼殺隊という組織が強さが全ての世界だとしたら、最強なのは伊之助ってことになりますよね? そこで炭治郎が果たす主人公としての役割って何になるのでしょう?
そこがポイントです。先にお話しした月もルルーシュも、ハッピーエンドを迎えられませんでした。2010年代以降の空気感として「他人を蹴落として一人勝ちを目指すことでは、幸せになれないらしい」と、みんなわかり始めている気がするんです。伊之助も力だけを求めていたら、より強い誰かにやられておしまいです。「ゴメンネ弱クッテ」になっちゃうわけで(笑)。伊之助は、炭治郎や善逸と出会ってどんどん人間らしさを得て、成長するんですよ。
そうか、だから伊之助が流す涙ってあんなに泣けるのか……! あの涙はゼロ年代的な強さから、10年代的な柔らかさへの成長なんだ……!
善逸も、引きこもって人に頼るだけではなくなっていきますよね。この二人を変化させたことが、まさに炭治郎の「2010年代の主人公」らしさだと思います。他のキャラクターの強烈な個性を上手に活かし、物語を進めていく。善逸や伊之助のことを絶対に見放さないという優しさも、個人の強さを乗り越えていく2010年代に必要な資質かもしれません。
悟りと煩悩、人と鬼…。その“中間”に存在するものがカギになる!
仏教から読み解く鬼と人の対立構造に、時代背景から読み解くキャラの構造。お二人の話を聞いていて、『鬼滅の刃』のさらなる面白さが見えてきた気がします! 他に注目しているポイントはありますか?
先ほど稲田さんの話にあった「悟り」ですが、改めて……悟りってどんな状態なんですか?
アニメでも有名な一休さんというお坊さんのエピソードで「悟れないことを悟った」というお話がありますが、悟った状態は認識できないんです。
「悟り」は自覚できない?
難しいのですが、悟りというのは、あらゆる言葉や概念を超えたところにあるものなんです。だから「悟ったと感じる」ということは、それを言葉や概念として捉えてる証拠であり、まだ悟りそのものに達していないことの表れとしてよく言われます。
「悟り」と「煩悩」は二項対立のようでもありますが、仏教ではこれらを対立させるのではなく、その境界線すらなくしていくことを目指します。善・悪、キレイ・汚い、そして自分・他人の区別をもなくしていくことが、悟りに近づくための一歩だということです。
仏教は悟りを目指すものなのに、悟りを認知することはできない……面白いですね。
稲田さんが持参した「稲田ノート」。作品の解釈メモが細かく書かれている!
でもこの構造は『鬼滅の刃』でもよく描かれていて、鬼と人間は対立しているけど、実はどちらも内面にお互いの要素を秘めているんです。鬼は退治されるときに人間だった頃の記憶がよみがえったり、人間の中にも鬼のような心の弱さを抱えているキャラクターがいたり。「鬼VS人間」の構図に見えて、実は一直線でつながっているんですよね。
これは僕の研究分野でもある「ゾンビもの」でも見られています! 昔はゾンビといえば人間の敵で、ゾンビになってしまったら終わりでした。でも最近のコンテンツでは「人間に戻るゾンビ」や「人間的な性質を残したゾンビ」など、人間とゾンビの“間”の存在が描かれるようにもなっていて。
ゾンビを完全な非人間として描くのではなく、コミュニケーションが微妙にとれるものとして描いたり、ゾンビ側に感情移入できる作品も出てきています。例えば『アイアムアヒーロー』では半ゾンビが、『ウォーム・ボディーズ』ではゾンビが人間とガイコツの間の存在として描かれています。「「ゾンビVS人間」の二項対立がどんどん薄まっているのは感じますね。
”間”の存在って、それ、仏教の「中道(ちゅうどう)」じゃないですか!?
なぜか仏教とゾンビが交差し始めてる……!
その“間”の存在って鬼殺隊の隊士にもいえるんですよね。僕が気になるのは、人間なのに特殊能力を持っているキャラクターがいるじゃないですか。鬼を喰って強くなる不死川玄弥とか、耳が異常にいい善逸とか、鼻が利く炭治郎もそう。これって「血鬼術」と近くないですか? 鬼であると言われはしないけど、人間も小さな「鬼」のようなものを持っているんだと思ってて。
なるほど。力についてもいえますよね。僕は『鬼滅の刃』の能力バトルの軸でもある「呼吸」が気になっていて、あの呼吸によって人間が“鬼”の側へ行ってしまっているんじゃないかと。
めちゃわかります! 呼吸ってまさに生と死のはざまにあるもので、止まると死ぬし、過剰でも死ぬ。炭治郎が吉原で堕姫と戦っているときに怒りで息をするのを忘れているシーンがありますが、あれがまさに「鬼側に近づきすぎている」象徴的なシーンだと思いました。
他にも鬼の状態に近づいていくといえば、「反復動作」のエピソードがありましたね。
岩柱の悲鳴嶼行冥ですね! 彼は怒りをくり返し思い出すことで強くなるんですが、僧侶みたいな見た目なのに「怒り」という煩悩にとらわれている、まさに”間”の存在なんですよ! 吾峠呼世晴先生、マジで天才だ!
反復動作を要するということは、無意識にはできないということなんですよね。
そうなんです! なぜ仏教が念仏や掃除といった「ルーティン」を大事にするのかという点で、『鬼滅の刃』は一つの解答を出しているんですよね……。炭治郎は無意識にそれができて、「透き通る世界」にたどり着くことができたんです。最初は長男だからと型にはまった生き方をしていた炭治郎が、徐々にその枠をなくして自他の境界線も薄めていく……。だから、僕、炭治郎は最終的に「仏の呼吸」を使うと思うんですよ……。
ずっと言うの我慢してたんですけど、稲田さん、マジでずっと何言ってるんですか?
コンテンツの面白さ倍増! 自分なりの解釈はどうすればできる?
岡本先生も稲田さんも、それぞれの専門分野からコンテンツを解釈されていますよね。私もそんな風にコンテンツを見てみたいのですが、マネできる方法ってありますか?
僕がオススメしたいのは「構造から見ること」です。
構造ですか?
絵柄とかキャラクターのカッコよさに注目するのももちろんいいのですが、そこを一度離れて「この人物は何をしているのか」「この人物の行動によって何が起きたか」と物語の要素ごとに分割して他の作品と比較してみてください。すると、思わぬ作品同士で共通点があったり、反対に「パロディかな?」と思うほど似ている作品でも、構造的には異なっていたり。今まで知らなかった作品のメッセージに気づくことができて面白いんですよ。
『鬼滅の刃』では、前世の記憶だったり、血縁だったり、作中で「つながり」が現れてくるのが面白いですよね。作品もまさにそうだと思っていて、作者がこれまでに見てきたものや触れてきたものの積み重ねで生み出されていると思うんですよ。また、読み手の感性だってそうです。
クリエイターが受けてきた影響もありながら、読み手である自分が受けてきた影響もそこにあるということですか?
そうだと思います。それに、僕は『鬼滅の刃』が仏教だからすごいと言いたいわけじゃなくて、僕の中にある「鬼滅が好き、やばい!」って気持ちを因数分解していったら、たまたま仏教という言語とリンクしたって感じなんです。ただのラブの言語化。
ラブの言語化! それなら好きな作品について語ることも多いので私にもできそうです。
作品はもちろん作者が作っているものですが、そこには編集さんの意見や作者自身も気づいていないような過去からの影響が隠れているかもしれないし、もしかしたらSNSで見かけた読者の感想なんかも溶け込んでいるかもしれません。それこそ「縁起」の世界ですね。
でも、作者の方が「そんなつもりはないのに!」と思うような間違った解釈をしてしまうのが怖い気持ちもあるんです……。
もちろん、悪意のある読み解き方は問題があります。でも、作品は世に出た時点で、ある程度は受け取る側にもその「受け取り方」が委ねられているものだと僕は思います。作品に対するリスペクトの気持ちと「これはあくまで一つの解釈である」という前提が共有できていれば、受け取り方は人それぞれ。そうした多様な読み方がコンテンツ文化をもっと豊かにしていくはずです。「こんな風に読めた」「こんな見方もある」と友達と語りあってみると、きっと新しい発見もありますよ!
さっそく鬼滅の刃を改めて読み返してみたくなりました! ありがとうございました!
コンテンツを斜めからみると、新たな発見がたくさんあった!
お目当てのコマを見つけて「ココ!ココ!」とテンションアップなお二人
『鬼滅の刃』についてゾンビ学の先生と現役の僧侶が語り合う……いったいどんな対談になるのかと楽しみ半分、不安半分でしたが、お二人の読み込み方がとっても深くて「なるほど~!」と膝をうってばかりでした。
改めて鬼滅の刃を読んでみると、物語の序盤で重要な伏線ともとれる台詞があったり、意味深な台詞があったりと、最初に読んだときと変わらないくらいの読み応えが!
「面白い!」と感じたコンテンツをくり返し観たり読んだりして、「なぜこの人物はこう言ったのかな?」「ここでこの言葉が強調されているのはなぜかな?」と考えを深めていくと、作品に対して新たな発見ができる瞬間もあり、さらに深い解釈ができることも。
皆さんもぜひ、好きな作品に改めて触れてみてください。
(おわり)
近畿大学で岡本先生が担当する「現代文化論」というゾンビの授業が、新書になって5月1日に発売されます。本のタイトルは『大学で学ぶゾンビ学~人はなぜゾンビに惹かれるのか~』(扶桑社)。中には、今回の話をより深掘りした「鬼滅×ゾンビ学」分析も。気になる方はぜひお買い求めください。
この記事を書いた人
藤堂真衣
フリーライター。近畿大学卒。絵柄の美しいアニメと漫画が大好物で、聖地の特定をたしなむオタク。何かにハマるとその話しかしなくなり友人から距離をおかれがち。ニックネームの「まいもん」は大学時代の友人がつけたもの。
写真:ロマン
企画・構成:人間編集部
この記事をシェア