2023.10.06
構造を突き詰めた人生と振り返り思う「刻の大切さ」。旭日双光章を受章された志水一博さんにインタビュー。
- Kindai Picks編集部
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2023年春の叙勲で旭日双光章を受章された志水一博さん。志水さんは建物の「構造」にこだわって建築を進めてきており、熊本地震では震度7に耐える住宅を手掛けたことで、メディアや研究機関から志水さんの建築物が脚光を浴びました。「刻の大切さ」を信条に地道な努力を続ける志水さんにお話を伺います。
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1971年(昭和46年)近畿大学産業理工学部建築学科を卒業。その後松井建設(株)へ入社、在職中にルーテル外語学院飯田橋を卒業。松井建設を円満退職後、昭和50年より(有)志水工務店(後に株式会社化 組織変更)の代表取締役を務める。現在、熊本県宅建政治連盟会長および熊本地区保護司会北地区相談役。平成28年(一社)日本住宅協会会長表彰(住宅関係功労者)、平成29年熊本県知事表彰(熊本県における宅地建物取引業の健全な発展に対する功績)、令和3年熊本県住宅局長表彰(建物優良工事)、令和3年法務大臣賞など表彰多数。令和5年春の叙勲により旭日双光章を受章。
曲尺一本から拓かれる「構造」への道
当時のことを語る志水さん
――はじめに志水様の経歴をお教えください。
志水:スタートは熊本工業高等学校(以下、熊工)です。定時制に通っていましたので、昼は建築大工をしながら、夜は勉強という生活をしておりました。そして、近畿大学へ進学。構造ゼミを卒業後、松井建設株式会社へ入社しました。その後、父親の体調不良を機に熊本へ戻り、以降は志水工務店とシミズ不動産の代表を務めさせていただいております。
――高校時代にはすでに働かれておられたのですね。
志水:私の父が「現代の名工」として新聞に取り上げられるほどの大工でして、棟梁だった父の下で働いておりました。曲尺(さしがね)というものをご存知でしょうか。大工道具の一つで、墨付けに使うものです。これを用いた規矩術という技法が、和風の建築には必須で熊本城のような大掛かりな建造物にも必ず使われています、大工の棟梁は曲尺一つで複雑な計算をし、和の構造物を手掛けていきます。それを四年間目の当たりにしていたものですから、今思うと「構造」に興味を持つきっかけは、曲尺一本の大工仕事が始まりだったのでしょう。
――「構造」をさらに深めようとするきっかけは何だったのでしょうか?
志水:あの頃はコンピューターはおろか電卓も普及していない時代でしたから、構造計算は全て計算尺と算盤で行っておりました。「耐震構造の父」とも呼ばれる内藤多仲さんが東京タワーを手掛けた際にも、電卓などは使わず、計算尺だけで構造計算を行ったという逸話が残っていた時代です。けれども、当時熊工におられた境 肇という先生が「これからはコンピューターで一瞬にして計算する時代がくる」ということをお教えくださり、それならば構造の世界をもっと勉強してみたい、と思いました。
人との出会いが人生を導いてくれた
――どうして近畿大学へ進学されたのですか?
志水:当時の記憶がもうだいぶ薄れているのですが、先ほどの境 肇先生が近畿大学の情報を与えてくれたことがきっかけだったように思います。もちろん浪人して、国公立に行くことも考えましたが、もう4年も働きながら高校に行って、同じような生活を続けるのはさすがにしんどいと思いましたのでそのまま近畿大学を選んだといういきさつです。
ただ、父親は私が高校を卒業すると同時に大工を継ぐと考えていたようです。当時の担任の先生がうちの父親を説得しに家まで来てくださったこともあり、無事大学へ進学することができました。お二人が熊工におられなかったら、きっと近畿大学へ進学することも叶わなかったかもしれません。
――近大時代はどういう学生だったのですか。
在学中は少林寺拳法部に所属していた志水さん
志水:自分で言うのもなんですが、熊工時代から勉学を怠らない真面目な学生でした。高校時代は欠かさずノートを取り、家に帰ってもその内容を復習、予習をし、同級生からは「メモ魔」と呼ばれるほどでした。大学では少林寺拳法部に入りながらも、やはりノートは欠かさず取りながら勉強を重ね……テスト前には「志水の寮に行けば対策ができる」と評判が立つほどでしたね。
――大学での思い出を教えてください。
志水:私の一生を左右する恩師である小野 正行教授に出会うことができたこと、また構造ゼミで勉学に励んだことが一番の思い出です。「鬼の教授」と呼ばれるくらい厳しい方でしたが、先生の下では非常にやりがいのある数々の実験をやらせてもらえたことが記憶に残っています。原書を元に耐震計算をし、モデル実験を自分たちで作りあげたり、鉄筋の配筋をし、破壊試験をやったり、というような実験をしていました。
長期休暇には、ゼミ生に非常に多くの課題を出されまして……すべてやりきるのはもちろん大変でしたが、お陰で大きく力をつけさせていただけましたし、その次のステップであるコンピューターの計算にも役立つこととなりました。
実験の様子が今もアルバムに残っていた
――その後も「構造」に関わり続けられるようになったのですね。
志水:ゼミで実験と計算を繰り返すうちに「構造」の捉え方が身体に染みつきまして、父は卒業後には私が熊本に戻ると思っていたようですが、大学で学んだことを社会に活かしたいと考えたこともあり、東京で就職をしました。松井建設さんの面接で、構造に興味を持っていること、構造計算のコンピューターの仕事をしたいということを伝えますと、採用後に構造設計室に配属され、東京の都庁で使われるような大規模な建築プログラムに携わらせていただけました。大学時代にしっかりと鍛えていただいたおかげだと思います。
構造に着目した建物づくりを経て
2023年春の叙勲で旭日双光章を受章
――今回、旭日双光章を受章されるに当たり、何が評価されたのでしょうか。
志水:基本的には不動産の部門の功績の方が目立ったと思っています。ただ、宅地建物取引士に加えて、1級建築士の資格を持っていたことも作用したと思っています。たまたまですが、熊本地震が起きる前に熊本の宅建会館の耐震診断を任せていただく機会があり、耐震補強したその後地震が起こりましたが、壁には一切ヒビはありませんでした。さらにその後に起きた大雨でもしっかりと防水ができていました。私の構造計算の経験と建築士としての技能がうまく合わさった結果で、それも評価されたのかもしれません。
もう一つは条例を廃止してもらえるよう尽力したことが評価されたのだとも思います。宅地に給水管を引き込めるよう、共有持ち分道路についての所有者同意を不要とするために、条例の見直しをしてもらおうと一生懸命尽力しました。県外の宅建の会合にも行かせていただき、約7年動き続けて、熊本市の条例を廃止することができましたので、それも一つ功績に挙げていただけたのでしょう。
資料を基にご自身の建築物について説明。
――今までの建築物で特に思い入れのあるものはありますか
志水:いくつかありますが、一つ挙げるとすれば「フランソア」でしょうか。オートメーションのパンやケーキの工場があります。元々は2階建てでの設計計画でしたが、計画段階で「3階に増築してほしい」と打診され、設計を変更しながら進めた建物です。また、この建物は裏が防衛庁で、クレーンを使うために複雑な許可を申し出て、時間帯の制限がありながら建築を行った記憶があります。
――地震に強い家としてテレビにも取り上げられていた住宅もありましたね。
志水:熊本地震では、震度7の地震が二度も住宅街を襲い、私の建物以外はみんな壊れてしまいました。それがきっかけで「なんでこの建物が壊れなかったのか」と、メディアから取材を受け、建物の解析も行っていただけました。その実験の中では、建物の外観だけでなく、内観の様子も比較したのですが、私の建物には内観にもほとんど被害は見られなかったんですよ。クロスにひびが入ったぐらいで済んでいました。他のモデルの住宅は、解析実験でもほとんど崩れてしまっていましたが。
また、ここで不思議な縁を感じまして、その時に実験を行ってくださった工学院大学の先生が小野 正行先生の後輩だったんですよね。地震に強い家だということを証明してもらった後、私の自宅他お客様の建物に被害がなかったことから、思わず小野先生に連絡をし、「学生当時、非常に厳しいことを言われ続けましたが、先生は私の命の恩人です」と伝えました(笑)。
益城町は熊本地震で震度7の揺れが襲った。周りの役場や建物に大きな影響が出ている中、志水さんが施工した住宅はほぼ無傷のままだった。
「刻の大切さ」地道な積み重ねに誇りを持って
旭日双光章以外にも飾りきれないほどの表彰状が事務所には飾られている
――「刻を大切にする」というのは志水様の人生において、ひとつの生き様とも言えると思います。
志水:そうですね、振り返ると私もそう思います。社会人になってからも自分で予定を立てて「今日は構造の勉強をしよう」「今日は建築基準法の勉強をしよう」というように勉強を進めていました。結果、宅建士や建築士もその時自分にできる最短の年月で取得することができました。また、海外で勤務を行う機会の話が与えられたら、現地でのコミュニ―ケーションも構造の計算書も全て英語で対応しなければいけません。そうなってから困らぬよう、「今この時にできること」を考え、在職中には英会話の学校にも通い、英語の勉強も進めていました。そこで今の家内に出会えたことを思うと「刻を大切に」した姿勢が功を奏したのかもしれません。
――もっと「こうしてればよかったな」って思ったことはありますか?
志水:建築が少ししんどくなった時期に「電気系統がよかったかな」「パイロットになりたいな」と思うこともありました。ただ、父に私が「建築がきつい」とぼやいた時には「なに、苦あれば楽あり」とたった一言で返された記憶があります。親子ですし、そこに多くの言葉はありませんでしたが、きっと遊び驕っていると「苦は一生ついてくる」ということを私に伝えてくれたのでしょう。父もコツコツ地道に物事を積み重ねてきた人間だからこそ響く言葉で、私も同様に「刻を大切に」地道に積み重ねてきたことが、資格をはじめ今あるもの全てにつながったのだと思っています。
――最後に卒業生と保護者の方に向けてメッセージをお願いします。
志水:今、私がこうしてお話させていただけているのも、高校生だった私に叔父が「大学に行けるなら行った方がいいよ」と言ってくれたこと、高校当時から大学までたくさんの恩師に恵まれて道程を示していただけたことがあってこそです。人との出会いやきっかけ……それは恩師であったり、友達であったりだと思います。それらを大切にするのはもちろんなのですが、どのように人生に生かしていくかも、生きていく上で大切なのだと感じています。
逆に、自分の存在が周りの人の人生に影響を与えることもあります、実は私の従弟の子が近大の医学部を卒業しております。元々医学部を志望していた彼に「近大の医学部はいいところだよ」と話したことが、彼が近大を志望したことに影響を与えたのでしょう。私が近大にいたことによって、彼の人生が大きく変わったと言えるのかもしれません。
近大は昔に比べ、とても大きな大学となりました。それは近大が、私たち卒業生が、地道に実績を積み重ねてきたからこそある姿です。そこに誇りを持つとともに、もし皆さんの身の周りで進路に迷う人がいたときには「近大はいいところだよ」と、そっと背中を押していただければと思います。
取材・文:笑屋株式会社
写真:品川英貴
企画・編集:近畿大学校友会
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