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2022.09.09

本人も制作を知らなかった?赤井英和さんのドキュメンタリー映画『AKAI』が公開へ

Kindai Picks編集部

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赤井英和

1980年にプロデビューし、「浪速のロッキー」の愛称で絶大な人気を誇った元プロボクサー・赤井英和さん。彼の現役時代から現在までの半生を描いたドキュメンタリー映画『AKAI』が、2022年9月9日より全国で上映されます。劇場上映開始に先駆けた8月25日、近畿大学・東大阪キャンパスにて『AKAI』の試写会と、赤井さんご本人によるトークイベントが開催されました。

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©映画『AKAI』製作委員会

2022年9月9日より、なんばパークスシネマほかで全国上映が始まる映画『AKAI』。現在は俳優やタレントなど、マルチな活躍でお茶の間の顔となった元プロボクサー・赤井英和さんの半生を描いた、ドキュメンタリー映画です。

1980年に鮮烈なデビューを飾り、デビュー後12連続KO(試合時間計72分)という日本タイ記録を持つ赤井さんは、1985年の試合で一時意識不明の重体になり、引退を余儀なくされるまで「天才」と言われ続けたプロボクサーでした。
「どついて、どついて、どつきまくる」スタイルから「浪速のロッキー」と呼ばれ、ノンタイトル戦であっても、赤井さんが出場する試合は全国でテレビ放送されるほどの人気を誇りました。

※ノンタイトル戦:ボクシングの対戦で、チャンピオンがタイトルをかけずに行う試合のこと。


本作『AKAI』では、そんな赤井英和さんがボクシングと出合った高校時代から、タレントや俳優として、幅広い世代の支持を得る現在までの軌跡を描きます。さらに、朝日放送テレビの映像協力により、世界王者に挑戦した「ブルース・カリー戦」や、引退の引き金になった「大和田正春戦」の息を呑む迫力の試合映像も収録。当時の貴重な映像を、映画館のスクリーンで視聴することができます。

赤井さん本人が「家族から何も聞かされておらず、完成後に初めて映画の存在を知った」と話す本作は、赤井さんの実の息子である、赤井英五郎さんが映画初監督を務めます。

英五郎さんは小学6年生のときにアメリカへ海外留学し、現地の大学で映像の技術を習得。さらに、大学に在学していた20歳のときにボクシングを始め、2018年には社会人選手権ミドル級で優勝。2021年9月に念願のプロデビューを果たした、有望なボクサーでもあります。

「(亡くなった)祖父はよく、“墓はいらない”“墓参りはこなくていい”と言っていました。(周囲の人には)亡くなってから感謝するのではなく、生きているうちに“ありがとう”を言わないといけない。これは今まで自分が、そして家族が関わってきた色んな人達に向けて感謝を伝える為に作った“ビデオレター”でもあります」(『AKAI』パンフレットより引用)と英五郎さんが語る本作は、親子だからこそ取材することができた、等身大の赤井さんの姿が克明に描かれています。

そんな監督・赤井英五郎さんに加え、1987年に出版された赤井英和さんの自伝をもとに映画化された『どついたるねん』で監督・脚本を務め、赤井さん本人を主人公に起用して演技の才能を開花させた阪本順治監督が、制作に全面協力しています。

全国上映が翌月に迫った8月25日。近畿大学・東大阪キャンパスにて映画『AKAI』の試写会と、赤井英和さんご本人によるトークイベントが開催されました。
ここからは、近畿大学在学時代の思い出や、映画『AKAI』にまつわるエピソードが語られた試写会後のトークイベントの一部を、ご紹介します。

赤井 英和(あかい ひでかず)

1959年8月17日生まれ。大阪市西成区出身。
先輩に誘われ、浪速高校入学とともにボクシングを始める。
高校の戦績は30勝9敗。3年ではライトウェルター級でインターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権で優勝。近畿大学に進学し、モスクワ五輪の代表候補になるが、日本のボイコットにより、断念。在学中にプロに転向する。アマチュア時代の戦績は56戦44勝(22KO)12敗。

1980年9月、プロデビュー。12連続KO勝ちの日本記録タイを樹立。「どついて、どついて、どつきまくる」スタイルから「浪速のロッキー」の愛称で親しまれ、ノンタイトル戦ながら、全国にテレビ中継された。1985年2月5日の試合でKO負けし、一時は意識不明の重傷を負い、選手生命を閉じる。引退後、自伝「浪速のロッキーのどついたるねん 挫折した男の復活宣言」(1987)を出版。当時、無名の新人だった阪本順治監督の目に留まり、自伝を基にした映画『どついたるねん』(89)で俳優デビュー。第63回キネマ旬報ベスト・テン・新人男優賞、第44回毎日映画コンクール・スポニチグランプリ新人賞、第14回報知映画賞・新人賞を受賞。その後はテレビドラマ、映画、バラエティー、舞台、CMとマルチに活躍する。

主な代表映画作は『王手』(91)、『119』(94)、『ありがとう』(06)、『憑神』(07)、『あしたになれば。』(15)、『文福茶釜』(18)、『セカイイチオイシイ水~マロンパティの涙~』(19)、『ねばぎば 新世界』(21)など(『AKAI』公式サイトより引用)。



「近大で過ごした日々は宝物」。選手として、コーチとして尽力した近畿大学の思い出



©映画『AKAI』製作委員会

――映画の中でも描かれていた世界王者ブルース・カリーとのタイトルマッチは、ここ近畿大学のキャンパス内にある「記念会館」で行われたんですよね。

近大に来たら、当時のことを思い出します。会場に来てくれた1万5000人のお客さんは全員、私の応援のために駆けつけてくれた人たちでした。リングサイドはもちろん、会場全体に知った顔がズラッと並んでいました。西成の商店街のおっちゃんらも来てるし、近大の先生や部活の仲間も来てくれて……試合当日は心強かったのを覚えています。

――そもそも、赤井さんが近畿大学に進学されたきっかけは?

高校2年生のとき「青森国体」に出場し、2年連続チャンピオンだった佐賀県の吉田信二選手と対戦して、私が勝ったんです。
その試合の様子を見ていた近畿大学の吉川昊允(よしかわ こういん)先生が、「高校を卒業したら、近畿大学に来ないか?」と声をかけてくださった。その後、高校3年生のときにインターハイで優勝して、アジアジュニア選手権でも優勝して、日本全国のいろんな大学から声をかけてもらったけど、最初に誘ってくださった吉川先生のもとに進学しようと決めたんです。やっぱり、大阪から離れたくない気持ちが強かったですしね。

――近畿大学にまつわる思い出はありますか?

近畿大学で過ごした5年間は、私の宝物ですね。1年長いんですけど(笑)。在学中だけでなく、卒業後の思い出もたくさんあります。プロ引退後、毎日をゴロゴロして過ごしていた私を「毎日、何もしてないんだったら、うちのクラブの面倒を見ろ」と、嘱託職員として近大に招いてくださったのも吉川先生でした。コーチとして4年間、近畿大学ボクシング部を指導している中で、学生たちが頑張って「全日本大学ボクシング王座決定戦」で優勝してくれたときは、一緒にうれし涙を流しました。生徒と一緒に悔しがったり、喜んだり……。コーチ業のやりがいも、近畿大学で教わりました。

――赤井さん、近畿大学にはたくさんの思い出があるんですね。

先生はもちろん、ボクシング部時代の先輩、後輩との関係は、今でも自分の宝物だと思っています。大学時代の友人や思い出はかけがえのないものなので、今この会場に来てくれている学生さんたちも、大事にしてほしいと思います。


自分の手で○○を触った!? 選手時代最後の試合で、生死の境をさまよう重体に



©映画『AKAI』製作委員会

――赤井さんといえば、デビューから12連続KO勝ちの日本記録(当時)で有名ですよね。

「自分が負ける」なんて、考えたこともなかったです。ボクシングに限らず、スポーツにはスピードやテクニック、ディフェンスやオフェンスなど、いろんな素質が必要なんですが、何より大事なのは「気持ち」なんですよ。あの当時は、自分の気持ちがすごくいい流れに乗っていた。

――その後、1985年の試合で意識不明の重体になり、惜しまれながら引退されましたが、当時はどんなお気持ちでしたか?

映画の中でも描かれていましたが、実は最後の試合の少し前に引退を考えていたんです。結局、引退は撤回して最後の試合に挑むわけですが、やっぱり全然気持ちがついてきていなかった。1985年のあの試合の開始直前、シューズの紐が切れていることに気づいたんですが、そんなことはありえないはずなんです。リングに向かうまで、シューズの紐が切れていることにすら気づけない……それぐらい、試合に気持ちが入っていなかったんですね。

――試合後、救急で運ばれた病院で急性硬膜下血腫、脳挫傷と診断され、緊急の開頭手術の末に生還されたんですよね……。

手術後の回復が異常に早かったらしく、開頭手術までしたのに、術後数時間で目が覚めたんです。頭のあたりがすごく気持ち悪くて、触ったら「むにゅっ」とするんですね。しかも、触った途端にものすごい吐き気が襲ってくる。でも、気になってまた触って、また吐いての繰り返しで……。しまいには、私が勝手に動かないよう、ベッドに縛りつけられました。

あとでわかったんですが、頭蓋骨が外されていたので、私は自分の脳を皮膚越しに触っていたんです。皆さんね、なかなか触ることはないと思いますけど、自分の脳は触ったらあきませんよ!


毎日が「必死のパッチ」。トントン拍子ではなかった、プロ引退後から芸能界デビューまで




――手術後は驚異的に回復されて、ボクサー引退後は俳優やタレントとしてマルチに活動されていますね。

今の私があるのも、あの試合で大怪我をして死にかけた過去のおかげです。あの試合があったから『どついたるねん』という自伝を執筆できたし、映画化の際に俳優として起用していただけた。今、俳優の仕事をさせていただけてるのも、全部過去のおかげ。ここに来てくれた後輩のみんなも、これからの人生で落ち込むことや、いろんな困難があると思います。でも「明日」という言葉は「明るい日」と書くように、自分なりに生きてたら、何か得るものがあるはずだから。死にかけた俺が言うんやから、間違いあれへんよ。

※正式な書籍タイトルは『浪速のロッキーのどついたるねん 挫折した男の復活宣言』。

――プロ引退後に、俳優やタレントとして成功する未来は計画通りだったのでしょうか?

いやいや、全然。もう、毎日必死のパッチ(関西弁で「これ以上ないほど努力している様子」を指す言葉)でしたよ。退院後、いきなりプロを引退してすることもないから、いろんな先輩方に「元気になりました」と挨拶回りをしてたんです。そんな中で、浪速高校の先輩である笑福亭鶴瓶さんにも挨拶に伺ったら、鶴瓶さんが自伝の執筆を講談社にかけ合ってくださったんです。その結果、本を出すことになりました。

いきなり自伝といっても、小学校のときから鉛筆も持ったことがない男やったし、近畿大学でも勉強なんかせずに油売ってましたからね。でもなんとか書き終えて、一冊の本ができました。本の売れ行きもね、甲子園や後楽園でホームランを打ったような手応えはなくて、ちっこいヒットを打っただけの作品やったんですけど、その本を映画監督の阪本順治さんが読んでくださって、映画化の話に繋がったんです。

ただ、本の出版から映画化の話に繋がるまでは、自分なりに落ち込むことも多い日々でした。当時を振り返っても、すべてトントン拍子でうまくいったわけじゃなかったけど「自分なりに前を向いて、明るい日に進んでいこう!」と行動したのがよかったと、私自身感じています。


俳優として、かけがえのない存在になるために。これからの「赤井英和」が歩む道




――これからの赤井さんは、どんな道を進んでいかれるのでしょうか?

舞台だったり、映画だったり、ドラマだったり、演じる場所はたくさんあるけど、同じ役を再び演じる機会というのは、ほとんどありません。新しい役をいただくたびに、その役の人物が歩んできた人生をイメージして「この人なら、こういう風に話すだろう」「こういう風に動くだろう」と想像を膨らませて、役を作ります。
今後は「この役は赤井がやってもアカンやろな」というような役でも「なかなかうまいこと演じとるな」、「この役は赤井が適任や」という役なら「やっぱり赤井やな」と評価していただけるような俳優になっていきたいです。

うちの奥さんにはいつも「あんた、芝居下手やな。ほんまバレバレやで」と言われてるんですけどね。それはまた意味が違うか。失礼いたしました……。

――最後に、本日の上映会に集まってくださったお客さんに、メッセージをよろしくお願いします。

母校である近畿大学で、ボクシング部の後輩たちや近大関係者の皆さんに、息子が撮った映画『AKAI』をご覧いただきまして、ドキがムネムネしております。同時に、本当にうれしい思いです。心から、ありがとうございました。


文:渡辺あや
編集:人間編集部

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