2021.10.01
親子2代、3代で愛されてきたブランドを守り続ける。海皇 阿部昌平さん
- Kindai Picks編集部
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JR東西線北新地駅から徒歩5分。ANAクラウンプラザホテルの北隣に、中国海鮮料理を味わえるお店「海皇(ハイファン)」があります。店内は高級感のある大人な雰囲気で会食にもおすすめ。お客さんの好みの料理やコース、味付けを提供してくれます。多くの常連客に愛されてきた、歴史のあるお店を経営されてきたのは、昭和57年商経学部卒業の阿部昌平さんです。今回は、阿部さんに海皇の40年の歴史や学生時代のお話を伺いました。
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阿部 昌平(あべ まさひら) 昭和57年 商経学部(現・経営学部)商学科卒業
新卒入社した海皇が撤退するタイミングで引き継いだのが堂島店
――海皇さんのご紹介をお願いいたします。
海皇は昭和49年に神戸で創業しました。神戸生まれの日本ではじめてのシーフードだけの中華料理屋として誕生しました。中華料理にはお刺身などはなかったのですが、伊勢海老のお刺身を提供したり、車海老の入ったちょっと創作的な料理で一世風靡したお店で、京都、赤坂、九州、大阪2店舗など展開し、系列の飲茶店もあって年商は最高で50億ぐらいまでいきました。そんなお店の売上が登り調子の時にはじめて大卒を採用することとなり、自分が昭和57年に近大を卒業して海皇の大卒採用第1期生で入りました。
平成14年まで同店で働いて、その後、退職して難波で独立し、中華料理店を始めてから3年後に海皇が倒産してしまいました。自分が長年働いてすごく好きなお店だったし、何とか残したいという思いから創業者に掛け合ったところ、頑張って引き継いでくれと頼まれ、平成20年に赤坂で新たにオープンさせました。自分は大阪で働いていたので、大阪のお客さんから毎日のように大阪にお店を出してほしいと言われている中、今の海皇堂島店がある場所で経営していたお店が、撤退するからとお声がけいただき、引き継ぐ形で大阪でのお店を始めました。
――日本で初めてといわれる中国海鮮料理を味わえるお店ですが、特にこだわりやいいところはどういったところでしょうか。
海皇は中国民族音楽の生演奏を取り入れていたお店だったので、それを自分もしてみたくて、赤坂店を作る時は音響も含めて考えて作りました。たまたま「なでしこクラウド」というアーティストと知り合い、月に1度のペースでディナーショーを開催していました。できれば大阪のお店でもやりたいのですが、アーティストの確保と音響設備がないためできていないのが実情です。昨今のコロナ禍の事情もあって、赤坂のお店は閉じたのですが、できれば中華料理とクラシックの生演奏がうまく合わさったようなエンターテイメントレストランのようなお店にしたいのが今の目標です。
また、レストランウエディングをしていたこともあり、メモリアルなお店として利用されることも多く、約30年前に顔合わせの席で海皇に来たというお客様が、その時のメニュー表を額に入れて持参されたこともありました。親子2代、3代で利用されるお店なんです。昔のスタイル、この「海皇」というブランドも守りながら新しいものを取り入れることをしています。
こだわっている点としては、大阪に戻った時に作った「近畿大学」とネームの入ったグラスです。これを作ったおかげか、色んなOBの方が足を運んでくれ、喜んでいただいております。このグラスのおかげで校友会の繋がりも持てたと思います。
赤坂のお店には歴代の総理大臣も来店されていた
――40年という歴史の中で、印象に残っている出来事は何でしょうか?
普通では巡り合えないような方たちに海皇を利用していただいたことですね。特に自分が作った赤坂のお店では歴代の総理大臣も数名が来られていますし、元の海皇にも総理大臣がよく利用されていました。また相撲関係の繋がりも多く、友綱親方(元旭天鵬)には、断髪式に呼ばれたりもしました。また海皇堂島店でいうと、某有名歌手が3年ほど前、フェスティバルホールでコンサートをされた時、コンサート前日に来店していただいたこともあります。数々の著名人が来てくれたこともすごく印象に残っていますが、一般のお客さんが、結婚式の披露宴から還暦の祝い、古希の祝いなどで長い間利用していただいて、お客さんが自分の顔を覚えていてくださったことはすごく嬉しかったですね。
飲食店のアルバイトに明け暮れた学生時代が原点
――どのような学生時代を過ごしていましたか?
あまり学校に行ってなかったのが悪かったのか、ドイツ語の単位が取れていなかったので、4年生の時に一人で授業を受けることになった苦い思い出があります。また、高校まで野球をしていて、自分と同じ兵庫県の東洋大姫路がその年に全国制覇したのですが、その学校の部員が近大の野球部に入っておられたので、自分はレギュラーになれないだろうと野球部に入部しませんでした。でも準硬式野球部の人が毎日教室に私を勧誘しにきていました(笑)。近畿大学は大きな大学ですから、日本全国から人が集まっていたし、まるで外国に来ているかのような感覚でしたね。
――学生時代の経験が今でも活きていることはありますか?
アルバイトをたくさん経験したことですかね。飲食のアルバイトばかりしていて、その中で経営管理のことを学べましたし、近大OBの人の紹介ではじめたスキー場の喫茶店でのアルバイトは、スキーをしたいバイトの子を、歩合給でうまく働かせて利益が出るようにしました。大型の200人くらい入る喫茶店で働いたときは、来たお客さんをどこへブッキングすれば利益が出やすいか、ロスなく席を埋める方法も学べました。海皇に入社して半年で店長になることができたのは、アルバイト経験が役に立ったからです。
――学生時代に思い描いた将来と、現在の阿部さんはいかがでしょうか。
今の学生もそうだと思うのですが、学生時代にはあまり将来像とかは思い描いていなかったですね。自分はただただ毎日楽しくて仕方がなかったなと。もう少しお金持ちになれていたらよかったなとは思いますが、山あり、谷ありで本当に楽しめたので、人生に悔いはないですね。飲食のアルバイトをたくさんしてきた中で、飲食業が好きなのか、サービス業が好きなのか、そのどちらもなのかは分かりませんが、付加価値の創造をすること、人を喜ばせるのが好きなんだと思います。人を喜ばせるレストランができたらいいなと学生の時から思っていたかもしれませんね。
「海皇」の意思を引き継いでくれる人に守っていってもらいたい
――卒業生としての近畿大学の魅力、近大を卒業してよかったと思うことはありますか?
近大OBの方が多いことと、すごくフレンドリーだということですかね。自分たちの時代の近大はそんなに声に出して言えるほどの大学ではなかったので、今となって入ってよかったな、通ってよかったなと思います。高校生が入りたい大学ナンバー1になったり、入試の志願者数がナンバー1になったり、近大マグロが有名になったりと色んな意味で嬉しく思います。
――今後の展望についてお伺いしたいです。
赤坂でお店を始めて13年、クラシックの生演奏を取り入れたり、自分の好きなお店作りを10数年できたことは幸せなことだし、また以前と同じように生演奏をできるようにしたいです。「海皇」というブランドを自分が続けられなくなっても、誰か意志を引き継いでくれる人に守ってもらいたい。または企業さんなどにコンセプトを理解していただいてブランドを残すことができたらいいなと思っています。
取材・文:笑屋株式会社
企画・編集:近畿大学校友会
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