2023.10.06
【大阪狭山市・古川照人市長】「出会い」が叶えたチャンス
- Kindai Picks編集部
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2023年4月23日、大阪狭山市長選挙において3期連続当選を果たした古川照人市長。大阪狭山市には現在近畿大学病院と近畿大学医学部があり、加えて古川市長も近大の卒業生。なんとも近大に縁の深い市が、ここ大阪狭山市です。今回は古川市長の経歴や市長としての想いを伺いつつ、大阪狭山市の魅力にも迫ります。
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大阪狭山市長。1996年(平成8年)3月、近畿大学商経学部商学科(現経営学部)卒業。
1999年4月に大阪狭山市議会議員初当選を果たした後、2期連続当選を果たす。2007年4月には大阪府議会議員に初当選し、以後2期連続当選の後、2015年4月27日、大阪狭山市長に就任する。「生涯 住み続けたいまち 大阪狭山市」を目指したまちづくりを行い、その後も2019年、2023年と3期連続の当選を果たし、長期にわたり大阪狭山市の市政運営に尽力している。
人を相手にすることに喜びを感じた学生時代
学生時代、塾講師のアルバイトに没頭していた古川さん。
――まずは古川市長のご経歴をお伺いできますでしょうか。
古川:平成8年に商経学部を卒業しております。その後は、府議会議員の父の下で、議員秘書として働いておりました。また、学生時代から学習塾で講師をしておりましたが、秘書時代でも続けており、3年ほど昼間は秘書、夜は社会人講師というような生活をしておりました。その後大阪狭山市議会議員、大阪府議会議員をそれぞれ2期8年ずつ務め、2015年に大阪狭山市長に就任。今年の4月には、市民の皆様のご支持により、3期目の当選をさせていただきました。これにより、引き続き4年間市長を務めさせていただくこととなりました。
――大学時代はどんな学生でしたか?
古川:あまりコツコツと頑張るタイプではなく……(笑)。たまに授業をサボることもあり、テスト前に慌てて友達にノートを借りて写させてもらって、それを提出するとか、短期集中で乗り越えてきたような学生でした。勉学よりもアルバイトに明け暮れていた記憶の方が強いですね。
――学生時代には学習塾の講師をされていたと伺いました。
古川:はい、4年間ずっと塾講師のアルバイトに没頭していました。塾講師を通じて、人を相手に仕事をすることの楽しさや面白さを学びました。正直、学校に行くよりも塾に行く方が楽しかったくらいです(笑)。子どもたちに分かりやすく教えるにはどうしたらいいかとか、どんな言葉遣いで教えたらいいかとか、そんなことばかりを考えていた学生時代でした。
秘書から議員へ。可能性に迷う中、訪れたチャンス
初出馬した際の古川さん
――議員秘書のお仕事、というと一般になかなか馴染みがないものだと思います、具体的にどんなことをされておられたのですか。
古川:先に述べた通り、父が府議会議員でしたので、父の秘書として働く中で、自然と地元地域の方と関わらせていただく機会が多くありました。特に当時は父の代わりとして葬儀に参列することが多かったです。また、住民の方々の相談事を聞いて、父に伝えて対応してもらう、という御用聞きのような仕事も多かったです。
――当時は、政治家になろうとは思わなかったのですか?
古川:そうですね。秘書時代には「自分もゆくゆくは政治家になる」というような、そこまでの強い想いはなかったように思います。「選択肢の一つとして、政治家っていうのもあるのかな」くらいに考えていました。学生時代から続けていた、塾講師の仕事が面白く、正規の講師として働くという選択肢も頭の中にありました。今思うと、中途半端な状態というか、どっちつかずの状態が続いていたとも言えますね。
――しかし、市議会議員に出馬、当選されることとなったのはどういう経緯だったのでしょうか。
古川:はい。ここが人生の大きなターニングポイントだと思っています。1999年の府議会議員選挙で父が負けてしまい、自ずと秘書の仕事もなくなるという事態に陥りました。その直後に支援者から「半月後の市議会議員選挙に出たら」という話をいただき、自分でも「これはひょっとして選択肢にあったものの一つを叶えるチャンスかな」と、思い切って出馬したところ、当選させていただきました。頭の中ではどこかで機会があればという考えだったものが、人がそのきっかけというか、背中をポンと押してくれる方と出会っていたからこの結果が生まれたのだと思います。縁とタイミングに恵まれた瞬間でした。
議員から首長へ。決断すること、責任を持つこと
市長選挙当選後、初登庁時のお写真
――その後府議会議員を経て、市長選に立候補されたきっかけを教えてください。
古川:市政や県政で自分のやりたいことをするためには議員よりも首長であることが一番効果的です。
議員の仕事は行政に市民の声を伝えて、前に動くように支援する。それが主な仕事なので、議員がやりたい政治ができるかというと、そうはいかないことが多いです。
対して、首長は自分で予算を編成します。限られた予算の中でという前提はあるものの、これだけの額をこの事業に配分すると決められるのは首長だけができる仕事です。市議会議員も府議会議員もさせていただいてきた中、自分がやりたいまちづくりは「首長でないとできない」という思いがあったのです。そして、2015年に当時現職の市長が次期選挙に出馬しないと表明されて、「これはチャンス」と思い、挑戦させていただきました。
――当選されたときの率直なお気持ちをお教えください。
古川:当然市長になりたいと思って立候補したわけですから、それはやはり嬉しかったですね。ただ、その嬉しさとともに責任の重さも強く感じました。それは議員に当選した時とは全然違うのです。任期はたった4年しかないので「この4年で結果を残さないといけない」とも思いました。特に、大阪狭山市は住宅を中心とした「住むまち」としてのまちづくりを進めてきた市なので、皆様に「住んでみたい、住み続けたい」と思ってもらえるまちづくりをどう進めて、この4年で結果を残すか、そればかり考えていました。
大阪狭山市の航空写真
――実際にどのようなまちづくりを進めて来られたのでしょうか。
古川:大阪狭山市には地場産業と言われるものが特に無いのです。特徴のある産業が市内にないため、仕事は他市で行うこととなります。その中で、大阪狭山市に人が住んでもらうためにはどんなことが必要かを考えることが大切です。大阪狭山市はこれまで教育に力を入れてきており、それに関連して子育てや、安全などを重点にまちづくりを進めてきたという歴史があります。私はそこにさらに磨きをかけることに取り組んでまいりました。
そしてその結果が今、人口の増加という数字で出てきているので、手ごたえも感じています。全国的に人口が減少しており、大阪府内でも、やはり人口が減っている自治体が多い。現在、大阪にある43市町村の中で人口が増えているのは12市町で、大和川以南の南大阪地域では大阪狭山市と田尻町しか人口が増えていません。このように大阪狭山市で人口が増えているのは、自分のやってきたことが功を奏しているからなのかもしれません。
――議員時代と市長時代では具体的に仕事がどのように変わったのでしょうか。
古川:市長は決断することが仕事です。また、決断した以上、結果責任も伴います。もちろん、それぞれの部署や課で判断できることもありますが、市長が判断しなければならないものは、何を選択してもメリットとデメリットがある。その中でどう選択し、決断していくかということになります。
そこで決めたことに対しては、賛成側の人から「ええことやってくれた」という声をいただきますし、反対の人たちからは「何してくれとんねん」という声もいただく。それらは全て私の責任として全部受け止めるしかない。それが市長である私の大きな役割ですし、そこは議員時代にはなかった責任です。首長だからこその責任を伴うようになった、それが大きな違いだと思います。
「見てよし、住んでよし」の大阪狭山市を目指して
狭山池。桜の時期にはとても賑わう。
――市長がおすすめしたい大阪狭山市の名所を教えてください
古川:大阪狭山市には約1400年の歴史を持つ「狭山池」という現存する日本最古の人工のため池があります。また、狭山池は桜の名所としても知られており、池の周囲には約1300本の桜の木が植えられています。桜の季節にはこれらが一斉にワッと咲くので壮観ですよ。新聞の「桜だより」にも開花情報が掲載される程に知られており、その時期はかなり多くの人が桜を楽しみにやってきます。狭山池の周囲には周遊路が整備されているので、ぜひ、歩きながら桜を楽しんでいただきたいと思います。
さらにこの狭山池からは、調査や平成の大改修を経て、さまざまな遺構や遺物が発見されています。例えば、樋(ひ)を作っている大木は高野山から伐採したコウヤマキという木で、その年輪から狭山池が1400年前の歴史を持つことが証明されました。その後、奈良時代には行基や、鎌倉時代には重源が改修に携わっていた歴史も明らかになり、その歴史的価値の高さから国の史跡にも指定されました。
この価値ある歴史を伝えるべく、安藤忠雄さんの設計による狭山池博物館が建てられており、狭山池について分かりやすく紹介しています。そこへもぜひお越しいただきたいです。
大阪狭山市の魅力を伝えるポスター
――大阪狭山市の魅力について教えてください。
古川:「見てよし、住んでよし」、そういうまちを目指して、本市では今もいろいろな取り組みを行っています。大阪狭山市の人口が増えているということは、転出者よりも転入者が多いということなのですよね。大阪にたくさんの市町村がある中で、この大阪狭山市を選んで転入してきていただけるというのは、大阪狭山市に魅力があるからだと思っています。私の中では、教育や子育て、住環境の良さを感じていただいたことで、大阪狭山市を選んだという方が多い印象です。これからも、さらにまちの魅力を高めていきたいという思いがあります。ぜひ大阪狭山市に転入してきてください、いいまちですよ。
近畿大学が私に与えてくれた「出会い」とつながり
近畿大学校友会大阪狭山支部総会開催時のお写真。
――近畿大学を卒業したことが政治活動においてプラスになっていることはありますか?
古川:はい、近畿大学を卒業したということは、この仕事を行う中で大きなアドバンテージとなっています。私の仕事は人と会ってこそだと強く思っています。
人と会うことで情報が入ってきたり、逆に情報を提供することができたり、一緒に行動を起こすことができたりもします。近畿大学を卒業されたという方は至る所に、それもたくさんいます。「先輩!」と親しみを込めてあいさつするだけで、一気に相手との距離が縮まりますし、私のことを気にかけてもらえるようになり、活動が大変しやすくなります。現在、卒業生が約57万人だと言われており、特別なつながりを持てる方々がこの社会にそれだけたくさんいることは、非常にありがたいです。
――市長としての今後の課題や展望を教えてください。
古川:長期的な話ですと、大阪狭山市は住宅を中心としたまちづくりをしている市なので、特に人口の増減によって税収が左右されます。そのため、人口をどう維持するか、さらに言えば、どう増やすかということが非常に大きな課題です。
直近では近畿大学病院と医学部の跡地をどうするかということが大きな課題です。2025年に医学部や病院が泉ヶ丘に移転することが決定しています。
これはもちろん、大阪狭山市にとっては非常に大きなダメージです。
しかし、大変なピンチではありますが、跡地のまちづくりは新たに地域を再生・活性化させる可能性を秘めた大きなチャンスでもあります。前向きに捉えて、この難局を乗り越えようと一つひとつの課題に向き合っているところです。
市長という立場で仕事をさせてもらっている以上、最後は市民の皆様に喜んでもらえるかが勝負で、市民の感覚を大事に、皆様の顔を見ながらまちづくりを前に進めていきたいと思います。物事を進めるに当たっても、一人では到底できないことばかりですので、市民の方々の力をお借りすることが多いです。近畿大学の卒業生や同窓生もたくさんおられますので、もちろん近大パワーもお借りしながら、市政運営に努めてまいりたいと思っています。
――最後に卒業生と保護者に向けてメッセージをお願いします。
古川:やはりどの仕事に就いても最初から最後まで「出会い」、これが一番大事だと思います。また、いろいろな人に出会おうと思うと、積極的に自分からいろんな場所に出向くことが必要ですし、そこで出会った人とその後どんな関係を持つかで、その後の生き方も大きく変わります。
卒業して感じていることは、社会には近畿大学の卒業生や同窓生が非常に多いということです。同じ大学を出ているというだけでその人との距離がぐっと近くなる、ということを私自身も経験してきているので、大学でしっかり勉強するのも大事なのですが、人との「出会い」を特に大切にしてほしいと思います。
もちろんそれは、大学だけに限りません。社会に出た後もいろんな人に出会うことが多いと思います。その人たちと深い関係やつながりをつくって、自分の人生に生かしていただきたいです。自分が今こういう仕事をさせていただけているのも全て「出会い」です。
いろいろな人に出会い、ご指導いただきました。背中を押してもらったこともあるし、叱咤激励を受けた時もあります。そんな方々と出会えたということでも、近畿大学を卒業したということには本当に大きな意義があると思っています。
取材・文・写真:笑屋株式会社
企画・編集:近畿大学校友会
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