2021.05.25
なぜ本屋でトイレに行きたくなる?なぜ森林でストレス発散?匂いと化学物質の関係性を専門家が解説
- Kindai Picks編集部
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「本屋に行くとトイレに行きたくなる(便意をもよおす)」そういう人ってけっこう多いんじゃないでしょうか。その原因は「匂いの刺激」にあるのではないか? という仮説があります。そもそも匂いって何なんでしょうか? 物質としての匂いを研究する先生に、匂いの正体や、匂いと身体の関係性について聞いてみました。
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みなさん、本屋には行きますか?
最近はコロナ禍で、ネットで本を買う人も多いかもしれませんが、本屋に行ったことがないという人はほとんどいないんじゃないかと思います。本屋に行くとたくさんの本が並んでいるので、目当ての本だけでなくついついいろんな棚を見て回ったりして、そうこうしてるうちになぜかやってくるんですよね……
便意が!!
みなさんは「青木まりこ現象」という言葉を知っていますか?
1985年、書評とブックガイドの本『本の雑誌』の読者投書欄に、青木まりこさん(29歳)という方から「私はなぜか長時間本屋にいると便意をもよおします」という投稿があり、その投稿に多くの人からの賛同があったことから注目され、「本屋に行くと便意をもよおす」という現象に「青木まりこ現象」という呼び名がついたそうなんです。一介の人の名前が便意の名前になるのヤバくないですか。
この現象が起こる理由については、「気持ちがリラックスして便意が促される」とか、「プレッシャーが腸に影響を与える」など諸説ありますが、その中で有力な仮説として知られるのが「匂い刺激説」。
そこで、「本屋に行くことで便意が促されるとしたら、本屋の匂いを嗅げば快便になるのでは?」という逆の発想から生まれた「本屋の香りスプレー」という商品があるのをご存知でしょうか?
なんと、この商品開発の監修をしたのは近畿大学の先生なんです!
便意をもよおす香りって一体何!?
そもそも、人間はどうやって香りを感じているの? 香りが身体におよぼす影響って? ライターのニシキドアヤトが、匂いの専門家・野村 正人名誉教授に話を聞いてみました。
匂いとは、いろんなものから放出される化学物質が空気中にただよったもの
この記事は、新型コロナウイルス感染拡大前の2020年1月17日に行った取材内容に加筆修正したものです。
近畿大学名誉教授(元工学部 化学生命工学科教授)。
有機合成化学や生物有機化学を専門とし、現在は「株式会社テックコーポレーション」の執行役員も務める。
「青木まりこ現象」と呼ばれる、本屋に行くとなぜかうんこがしたくなるナゾについて聞きにきました! よろしくおねがいします!
よろしくおねがいします。
「青木まりこ現象」ってつまり、本屋の匂いが便意を誘う……ってことなんでしょうか。
便意を誘発させる要員の一つとして「本屋に漂っている匂いの成分の中にトリガーがあるのではないか?」と仮説を立てて、3年間図書館や本屋の匂いを採取し、実験を行ってきました。その結果、とある化合物に排泄欲を促す効果がみられたんです。
それってどういう仕組みなんですか!?
まずは、匂いを人間の身体がどうやってとらえているのかというところからお話ししましょう。
確かに「匂いとは?」なんて考えたことがなかった。
匂いというのは、世の中にあるいろんなものから放出される化学物質のことです。それは目に見えないくらい小さくて、空気中に浮遊している。それが我々の鼻腔の神経に接触することで匂いを感じているんです。
たとえば、温泉の硫黄の匂いは温泉の中にある硫黄の成分が浮遊して匂いになってるってことですか。
そうです。ただ、匂いの成分は一つではなく、さまざまな物質が混ざってできています。自然界にある匂いの物質は約40万種類もあるといわれています。そのうち人間が嗅ぎ分けられるのは約1〜2万種類程度なんです。
1~2万種類!? 十分多いですよ!
この部屋も、わからないくらいのいろんな物質が混ざって、部屋の独特の匂いになっています。鼻腔の嗅細胞に触れた化学物質は、大脳皮質を刺激し、脳で「いい匂い」「嫌な匂い」「これは温泉の匂いだ」と、判断するわけです。
嗅覚の仕組み
嗅上皮上の嗅細胞に存在する嗅覚受容体がセンサーとなり、匂い分子と結合することで匂いのコードを識別し脳へ伝達する。人間の嗅覚受容体は約400、アフリカゾウは人間の5倍あると言われている。
そうか、脳が認識しているんだ……。じゃあ、この机とか椅子とか、床のマットからも、わからないくらいの何かが出てるんですね。
ええ。気にならないくらいですが、ニスや木材から発せられる臭気成分など出ていると思いますよ。
じゃあ「いい匂いかどうか」ってどうやって判断してるんですか?
たとえばバラの匂いだとか、チーズの匂いだとか、人は大脳の中に「匂いの引き出し」を持っているんです。本能的に備わっている引き出しもあります。
本能的に「これは嫌な匂いだ!」ってわかることですか? 小さな子どもでも?
「警戒臭」と呼ばれる「腐った匂い」や「焦げた匂い」は、危険を回避して命を守るために本能的に危機感を覚えるようになっているんです。また、匂いは恋愛にも影響していて、配偶者を選択する際に近親交配を防ぐため、遺伝子の近い匂いを嫌がるという傾向もあります。
いい匂いと思う相手とは遺伝子レベルで相性がいい!? 遺伝子工学の専門家に聞いてみた
娘が年頃になると「お父さんくさい」って嫌うやつですよね。
そうです。でも、匂いの引き出しは経験にもとづくものも多いんです。日本人は日常的に食べている経験があるから、納豆や漬物の匂いに危機感を持たずに「おいしい」と感じられますが、経験したことがない欧米圏の人には「くさい」と認識されるかもしれません。
僕は車の匂いで気持ち悪くなるんです。子どもの頃に車で吐いたことがトラウマになって、車の匂いを嗅いだり想像するだけで気持ち悪くなる……。やっぱり匂いってそういう記憶を呼び起こす効果があるんですね。
でも「くさい」と認識されがちな匂いも、何百倍にも希釈するといい香りとして認識されることもよくあります。腐った玉ねぎの匂い成分や、糞便の匂いである「スカトール」も香水に使われていたりします。
うそでしょ……うんこが……香水に!!?
糞便の匂いも、微量だとジャスミンなど花のような芳香成分になるんですよ。
香水といえば先生、車の匂いで気持ち悪くなるって言ったんですけど、車の消臭スプレーや置き型の消臭剤によって、余計に変な匂いになって気持ち悪さが増すことがあって。消臭剤の仕組みってどういうものなんですか?
消臭剤の匂い分子で消したい匂いの分子を包む「マスキング」や、消したい匂いの成分を消臭剤の匂い成分に取り込む「ペアリング」、他にも化学反応で中和させる方法があります。余計に臭くなってしまうのは、マスキングしきれなかったり、消臭剤との匂い成分の相性が悪い場合があるからかもしれません。
昆虫の忌避剤の成分を参考に、化合物の骨格の一部(官能基)を変えて身体に悪影響のない成分にする方法を説明してくれる先生。
匂いが消滅するわけではないってことですか?
マスキングやペアリングは他の匂いで誤魔化しているだけで、匂いの分子そのものが消えるわけではないんです。化学反応させる場合は、匂いのしない別の分子に変わります。
なるほど、難しい……。
春夏秋冬足かけ3年! 本の匂い成分を分析してつくった便意をもたらす「本屋の匂い」
本題に戻りますが、本屋や図書館で採取された「排泄欲を促す物質」って何だったんでしょうか?
塩化ビニールを柔らかく扱いやすくするために添加する「可塑剤(かそざい)」というものがあるんですが、どうもそこから揮発する成分が影響しているということがわかりました。
えっ! 本屋では何に使われているものなんですか?
本のインクやカバーに使う素材に含まれています。可塑剤にはフタル酸系、アジピン酸系、リン酸系、トリメリット酸系など数多くの種類があるんですが、我々の分析によって「フタル酸エステル類」※という化合物を特定しました。
※フタル酸エステル類:フタル酸とアルコールがエステル結合した化合物の総称。マニキュアのひび割れ防止などにも使われる。内分泌撹乱物質としての作用などが報告されており、6歳未満を対象としたおもちゃなどへの使用は規制されている。
ふ、ふたるさん……? それはどうやって特定したんでしょうか?
最初は何の匂いが作用しているのか予想がつかなかったので、とにかく図書館の匂いを集めまくりました。
地味に大変そう……。
本棚の前の人間の鼻の高さくらいの位置に測定器をおいて、匂いの成分を吸着させます。朝に電源を入れて夜に電源を切って、そこから抽出した成分を分析するんです。
温度や湿度によってもどの匂いも成分の量が変わってくるので、春夏秋冬、毎日測定しました。結局3年間ほど続けましたね。
めちゃくちゃ大変だ~!
そして、化合物を特定して、マウスに嗅がせる実験をしました。インクなのか、本棚や壁材にあるのかなど、あらゆる要素を検証して。すると、可塑剤の「フタル酸エステル類」の匂いを嗅ぐとマウスの排泄の回数が多くなるという結果が出たんです。
へー!! ちなみに、その匂い成分は、新しい本と古い本だと違うんですか?
やはり新しい本からの方が多く出ますね。なので、便意をもよおす場所としては、古本屋や図書館よりも、新品の本が並んでいる本屋の方が効果が高いと思われます。
過去の研究データを見せていただきましたが全く意味がわかりませんでした。
その匂いに、本能的に便意に訴えかける何かがあるんでしょうか?
申し訳ないんですが、そこはねえ、まだわからないんです(笑)。マウスの実験によって排泄の回数が多くなる物質は特定したんですが、その仕組みについては解明できていないんですよね。私の専門とはまた分野が違ってきてしまうんです。細胞系神経系で伝達物質が脳にどんな指令を出すのかまで研究をしていると莫大な時間がかかりますから。
でも、先生の研究によって長年の疑問が少し解決したってことですよね!
この研究結果は「排便促進用組成物」として2013年に特許の申請が通りました。
すごい、特許まで! このすごい問いを世に生み出した青木まりこさん……見てますか……!
現代人のストレスは森林離れが原因!?
匂いは確実に生き物の身体に影響を与えてるってことですね。
そうですね。匂いは鼻で嗅ぎ取っていると思われがちですが、匂いの成分となる化合物は皮膚からも吸収されますから、みなさんが思っているより影響はあるんですよ。
たとえばどんなことでしょう?
いま多くの人が日々ストレスを抱え、さまざまな現代病に悩まされていますよね。それはコンクリートだらけの都市で生活する「現代人の森林離れ」が大きな原因だと私は考えています。
現代人の森林離れ……!?
いま私が関わっている研究に「フィトンチッド」というものがあるのですが、これは森に生えるさまざまな木々から発せられるいわゆる化学物質の総称です。簡単に言えば、森林浴の香りです。
フィ、フィトンチッド……?
フィトンチッドという言葉は、ロシア語で植物を意味する「phyto(フィトン)」と、殺すを意味する「cide(チッド)」が合体してできているんです。1930年にロシアの科学者が「植物を傷つけるとその周囲にいる細菌などが死ぬ現象」を発見したことからそう名付けられました。
なんか、ファンタジーゲームの世界みたいじゃないですか!
フィトンチッドは植物が傷ついたときに、病原菌に感染したり、害虫を寄せ付けたりしないように放出していると考えられています。自分の身を守るためのバリアのようなものです。人々は昔から森林のそばで暮らすことで、病原菌やウイルスから身を守り、体内の免疫バランスを整え、健康を維持できてきたわけです。
それは根拠的なやつは出てるんですか?
論文にしてます。
めちゃくちゃ簡単に説明してください。
ヒノキや青森県によく生えているヒバなどは防虫作用、防腐作用があり、最近は木材のチップが天然の防虫剤として売られています。また、駅弁を開けたときに、紙のように薄い木の板が入っていることがありますよね。あれは杉などを薄く削ったもので、お弁当が傷まないようにしているんです。
あのお弁当のやつ! 「旅っぽさ」が出るアイテムかと思ってたけど、意味があったんですね……!
菌が繁殖しないということはつまり、腐らないということ。レモンは、表皮から「リモネン」という蒸散性のある化学物質を出して自らを守っているんですが、普通に置きっ放しにしておくと香り成分が底を尽きてしまって、やがて腐ってしまう。しかし、フィトンチッドで満たした空間に置いておけば、3年経っても腐らないんです。
フィトンチッドすげえ……!
昔から木々は、防虫や抗菌、防腐のために日常的に利用されてきました。昔の人は、フィトンチッドという化学物質までは知らないけれど、木が虫や腐敗を防いでくれることを学んでいたんですね。
フィトンチッドがいろんなものを防ぐまではわかったんですが、それがストレスにも関係しているんですか?
そうなんです。フィトンチッド……つまり森林浴の香りは、生き物にリラックス効果を与えることがわかっています。フィトンチッドを嗅がせたマウスと嗅がせていないマウス、それぞれに同じストレスを与えたら、嗅がせていないマウスの方が体調を崩してしまったという実験結果が出ています。
僕たちが山の空気を吸ってなんだか気分がよくなっているのは、フィトンチッドだったんですね。
いま、都会で暮らす人がさまざまな病気にかかっているのは、森林から遠ざかってしまっているからではないかなと私は思いますね。人間を含む動物は、太古の昔からたくさんの植物を利用して生きてきました。それは、動物が「森と一緒に生きてきた」と言っても過言ではありません。
便意の話からめちゃくちゃ真面目な話になってきた。
最新では、フィトンチッドを溶かした溶液の中では、新型コロナウイルスの活動が抑制されたという研究結果も出ました。フィトンチッドによって菌を防ぐだけではなく、メンタルバランスまでも保っていたわけです。メンタルバランスが安定すると、免疫力も向上して健康になります。
フィトンチッド、無敵すぎ〜!! もうこうなったらいますぐ森に行かなきゃ! って思いましたけど、都心部は森が遠い……。
フィトンチッドは森林まで行かなくても、木の多い公園で浴びることができます。皇居や日比谷公園、新宿御苑みたいな……。
大阪だったら大阪城公園とか?
そうそう、特に日が出る前や早朝の時間帯って、朝靄が漂っていますよね。あの朝靄の中はフィトンチッド濃度が高いんです。だから、風のない日にそのモヤの中を散歩するとリラクゼーション効果があります。公園での「早朝ラン」が好きな人、あれはフィトンチッドの効果に知らず知らず触れているからじゃないでしょうか。
早朝のモヤモヤが広がる公園に行けばいいんですね! 僕が早朝の公園にいるのを見た人はストレスたまってるのかなと察してやさしくしてほしい……。
喜怒哀楽のいろんな感情や欲求、じつは「匂い」が影響しているのかもしれない
本屋に行くと便意をもよおすというのは、都市伝説でも何でもなく、きちんとした理由があったんですね。しかもそれが、本のインクやカバーに含まれる可塑剤の匂いだとは……。
さらに驚いたのは、植物から発せられられるというフィトンチッドのこと。森林の香りが菌を防ぐ上に、生き物をリラックスさせるとは思いませんでした。
本屋でトイレに行きたいと思ったときや、公園の中で心が休まったり、カレーの匂いで途端に口に唾液が湧いてきたり、何かの匂いを嗅いで心身に変化が起こったとき、そこにはいろんな化学物質が漂っているということ。「疲れたなあ」とか「落ち着くなあ」とか、日々やってくるいろんな感情や欲求は、じつは目に見えないだけで自分たちのまわりにある匂いから影響を受けているのかもしれませんね。
気になった人は本屋や早朝の公園に足を運んで、実際にどんな匂いがするのか、どんな感情や欲求がわいたか調べてみると面白いかもしれませんよ。
取材:ニシキドアヤト
文:平山靖子
写真:トミモトリエ
編集:人間編集部
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