2021.06.24
赤井英和の"わがまま"で串かつ屋に!?大阪名物「だるま」の上山勝也会長に聞く商売と義理人情
- Kindai Picks編集部
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大阪のソウルフードでもあり、新世界の名物でもある「串かつ」。そのブームを牽引してきた老舗「串かつだるま」の味が現在も継承されているのは、赤井英和さんの「わがまま」がきっかけだった!? その真相を探るべく、庶民派グルメをこよなく愛する自称プロ飲み師の高山洋平社長が大阪までやってきました。
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緊急事態宣言の発令により公開を見合わせていましたが、この記事は、「まん延防止等重点措置」適用前の2021年3月31日に取材を行ったものです。「串かつだるま」「だるまきわ味」全店、6月21日より大阪府・東京都の要請に従い営業を再開しています。
こんにちは、株式会社おくりバント社長の高山洋平です。
今日は通天閣にやってきました。
突然ですが、みなさん赤井英和さんはご存知ですか?
「浪速のロッキー」の愛称で親しまれた大阪が生んだプロボクサーであり、引退後は『高校教師』や『半沢直樹』といった数々のドラマや映画に出演した名俳優でもあります。
僕は中学生の時に通天閣を舞台にした赤井さん主演映画の『どついたるねん』や『王手』を観て、この地にただならぬ憧れを抱いていました。
1929年創業、大阪式の串かつの元祖である「新世界元祖串かつだるま」総本店。
大阪を語る上で外せないのがやはり「グルメ」ですよね。
通天閣周辺にも多くの名店がひしめいていますが、数ある有名店の中でも大阪に来たら絶対に食べるべきソウルフードがあります。
それは「だるま」の串かつ。
串かつといえば「二度漬け禁止」のルールが有名ですが、その発祥といわれている店なのです。
「二度漬け禁止」のソースに漬けて食べるのが大阪式の串かつ。
12席しかない3坪の小さな店だった「だるま」は、今や国内16店舗(2021年6月現在)に拡大。新世界名物であり大阪を代表する飲食店として有名です。
その「だるま」に、赤井英和さんが深く関わっているという噂を聞き、その真相を確かめるために今回やってきました。
家のローンもあるのに……石油販売会社の副部長からたった3坪の串かつ屋に!?
1961年生まれ、大阪市生野区出身。株式会社一門会の代表取締役社長兼会長。浪速高等学校のボクシング部で赤井英和と出逢う。2001年11月先代より「串かつだるま」を継承し、総本店をリニューアルオープン。2021年6月現在、「串かつだるま」14店舗「だるまきわ味」2店舗に拡大。串かつだるまと自身の歴史を語った「二度づけはあきまへん 新世界だるまが歩んだ90年」は2021年11月22日より発売。
1959年生まれ、大阪市西成区出身。浪速高等学校でボクシングを始め、近畿大学在学中にプロ転向。デビューから12連続KOという日本記録を樹立し「浪速のロッキー」として人気を博した。1985年に初の世界タイトル前哨戦で敗戦。重傷を負い引退。引退後は俳優、タレントとして活躍。1995年に映画『119』で『第18回日本アカデミー賞』優秀主演男優賞、2001年に映画『十五才 学校IV』で『第24回日本アカデミー賞』優秀助演男優賞を受賞。
よろしくお願いします。まず最初に言わせてください。
赤井さんずっと逢いたかったです!
中学生の頃からずっとファンでした!
(笑)。おおきに!
今回は憧れのスターに逢えるいうことで本当に興奮しています! これで親戚一同にも一生涯自慢できます!
大袈裟な人やな(笑)
今回は「串かつだるま」を語る上では赤井さんが切っても切れない関係だという話を小耳に挟んだので、串かつだるまの会長である上山会長に来ていただきました。ところでお二人はどういうご関係なんですか?
僕たちは浪速高等学校ボクシング部の先輩後輩なんです。赤井さんが2歳上の先輩です。
ということは40年以上のお付き合いということですね。
近大マスクをつけていただきました。現在、赤井さんが61歳、上山会長が今年60歳。
学校卒業したら違う環境になってお互い忙しくなるじゃないですか。でも、赤井先輩とはずっと付き合いがあったんです。プロボクサーとして活躍している時も、引退して俳優になっても、赤井先輩が大阪に帰ってきたら「焼肉食うぞ」言うて呼び出されて、ずっと主従関係が続いてたんですよね(笑)
上山さんって、急に「だるま」を継ぐことになったとお聞きしたんですが、それまではなにをやっていたんですか?
石油販売会社で副部長をやってました。
えー! 急に人生が変わりますね。サラリーマンとして一番、これからって時ですよね!
そうですね。中小企業ですけど、それなりの立場におったし、給料も結構いただいてました。家のローンもまだ全然あったし、娘も中学生くらいやったんです。
働き盛りですよね。
そうなんですよ! そこへ、赤井先輩から急に連絡があったんです。「だるまを継いでくれ」」って(笑)
いきなりですね! 赤井さんこれはどういう経緯があったんですか?
ある日「だるま」行ったら店が閉まってて。で、翌日行っても休んでる。「あれ?」と思って、三代目のご実家まで訪ねたんです。そしたら「病気して、もうやめようと思ってんねん」と言うんですよ。えええ〜!!! って思いましたね。ずっと通ってた一番美味い「だるま」がなくなるなんて「そんなんあきまへん」言うたら、「じゃあ、赤井さんやってください」と言われて……。
1959年(昭和34年)当時の「だるま総本店」三代目店主。
それで、後輩の僕に「お前継いでくれ!」と言うてきたんですよ(笑)
ずっと「だるま」を愛し続けている一人として、「だるま」を守ってもらいたいという気持ちが強くて、とにかくやってくれ! と頼み込んだんです。
その時、上山さんは順調にお仕事されていたわけじゃないですか。そこから3坪しかない串かつ屋になるって相当な覚悟が必要ですよね。
正直「どうしよう」と思いましたよ。でも断る選択肢がなかったです(笑)
先輩の言うことは絶対! 伝説のヤンキー赤井英和の高校時代
断る選択肢がないって(苦笑)。赤井さんは高校の時どんな先輩だったんですか?
ほんとに怖い先輩でした。子どもの頃って親怖いでしょ? それと同じような感じで、絶対的な存在でしたね。
僕は東京出身で、今42歳なんですけど、世代や土地が違えど赤井さんと前田日明※さんの名前は東京でも有名だったんですよ。伝説のヤンキーと言われて、電車で態度の悪いヤツを見つけたら片っ端からボコボコにしていたとか。
※前田日明(まえだ あきら):赤井さんと同年代で大阪市大正区出身の元プロレスラー。「キタの前田」「ミナミの赤井」と言われ恐れられてたという。
それは本当ですね(笑)
伝説のヤンキーと言われていた18歳の頃。弱い人を守り、悪いヤツらに喧嘩を仕掛けるヒーロー的な存在でもあった。
僕はJRの阪和線で高校に通ってたんですけど、赤井先輩は南海電車の南海線で。だから、僕も帰りは南海線で帰ってました。天下茶屋で降りて、今池駅近くにあった赤井先輩の家まで送ってから家に帰るのが僕の高校時代の習慣。当時の赤井さんとの関係は兄貴と舎弟みたいな感じでしたね。まぁ今もその関係は変わってないですけどね(笑)
なるほど、断れない理由がわかってきました。兄貴の言うことは絶対だったということですね。
僕ね、誰にボクシング教えてもらったかってゆうたら赤井先輩なんですよ。高校の先生はボクシングできへんかったし、コーチもいなかったし。
指導者がいなかったので赤井先輩が街のジムで学んできたことを部員に教える。それで全国レベルまでいけるくらい強くなっていったんです。
赤井さんは選手としてだけではなく指導者としてもすごかったんですね!
当時の浪速高等学校ボクシング部。当時、上山会長は54キロ、赤井さんは63.5キロ。階級が違うためグローブを交わすことはなかったという。
部活帰りに一緒に「だるま」にも行かれてたんですか?
行ってましたね〜。赤井先輩は親分肌やから「おい、いくぞ!」と言って、僕らはもう「はい、わかりました」ってついていくだけの話なんですけども(笑)
当時の新世界ってやっぱり『どついたるねん』や『王手』の映画の世界のまんまだったんですか?
※『どついたるねん』(1989年公開):赤井英和の自伝を元に、阪本順治が監督・脚本を務め、赤井英和本人の主演で映画化したボクシング映画。新世界や西成の街が舞台となっている。
※『王手』(1991年公開):『どついたるねん』に続く、阪本順治監督による新世界を舞台にした3部作のひとつ。赤井英和と加藤雅也が将棋で闘う、真剣師(賭博によって生計を立てている人)の姿を描いた映画。
まあ、あのまんまやね~。
カオスというか、ハードコアというか……。
ええ、当時はそうでしたね。今は観光地化して、だいぶ変わりましたよ。
安倍元総理に「二度漬け禁止」を注意したことで話題に
ここからは、串かつを食べながらお話を伺います。
でも、いくら先輩の頼みとはいえ、急に「やれ」って言われてできます!? 家族の反対はなかったんですか?
嫁はなにも言いませんでしたね。それまでは僕もちゃんとしてたし、親も商売人でしたから、あまり心配はしていなかったんでしょう。でも、僕にとっては一大決心ですよ。赤井先輩には言えなかったけど、ものすごいプレッシャーを感じました。
結構悩んだんじゃないですか?
いや、一週間以内に決断しました。もう、やらなきゃ仕方ないなこれ……って。
腹をくくったんですね。
サクッと牛脂で揚げられた衣は胃もたれしないのが特徴。
ちなみに、先代はどんな方だったんですか?
職人ですね。ほんまに寡黙で真面目な人です。
その当時も「二度漬け禁止」はありましたか?
もちろん当時からありました。ステンレスの四角い入れ物に入ったソースにドボーンと漬けて、食べて、もう一回漬けようとしたら「ああ、アカン! それ二度漬け禁止やで!」と言われて。ソースが足りないときはキャベツですくってかける。
先代はひたすら職人として串かつを揚げ続けていました。昔ながらのやり方だと、どうしても油が目に飛ぶんですよね。で結果的に網膜剥離になってしまったんです。僕はボクサーだったから、油飛んできてもひゅっとかわしていたんですけど。
ほんとですかそれ(笑)。ビジネスとして成功した秘訣は何だったんでしょう?
僕は元々料理人じゃなかったので、逆にそれが良かったかもしれません。料理に関して工夫ができなかったから、そのままの味を守ることしかできなかったんです。
ソースの「二度漬け禁止」は、俺らがテレビで話していたんですよ。そしたらいつの間にか全国に広がったんです。
もはや大阪の標語になってますよね。東京の人もわかりますから。
「二度漬け禁止」が一気に広まったのは、通天閣店に当時総理大臣やった安倍さんが来た時。マスコミの取材もたくさん入っている中で「うちは二度漬け禁止やから、なんぼ総理でもアカンで!」と注意したら、それがうけて全国のニュースでバカーンと広まったんです。狙って言ったわけじゃないんですけど、誰に対しても「二度漬け禁止やで」と言うのがお決まりやったから。
今も難波本店の前にある上山さんがモデルの看板。
庶民に対しても、総理に対しても言うことは一緒なわけですね。それに、上山さんは自ら「二度漬け禁止のおっさん」として看板にもなってますもんね。
それも、俺が最初に作ったんです。難波本店がオープンした時に、お祝いとして上山会長の人形を作ろうと思って。人形の元になる写真を撮るために「二度漬け禁止やで!という顔で怒ってくれ」とポーズをしてもらった。それが人形になって、看板になって……。
自ら巨大看板になり、生きた「大阪名物」に……
実際に赤井さんがプレゼントした人形。今でも「ご神体」として大切にしている。
なるほど。じゃあこの人形が看板の元ネタになったということなんですね!
そう。これをどうやったら活かせるか考えて「等身大の人形を作って店の前に置いてやろう」と、店舗前に置いたのが始まり。それが、僕の赤井先輩に対する感謝の気持ちだった。面白いことが好きだから、こうしたら喜んでくれるんじゃないかと。だからこれを「ご神体」と呼んでます。これがあったからこそ商売が成功したと思ってる。
そうなんですね。もはや大阪名物であり大阪の顔になってますもんね。
大阪名物の看板は、「グリコ」「づぼらや」「かに道楽」もあるけど、実在して生きてるのはこれだけですから(笑)
当時赤井さんは、上山さんに任せたら成功する、という確信はあったんですか?
赤井先輩はね、純粋に「だるま」がなくなるのがいやだった。本当にまっすぐな人なんですよ。だから、そんなに深くは考えていなかったと思います(笑)
とにかく俺は、だるまの串かつをまだまだ食いたかった。
上山会長の経営者としての資質を見抜いていた……わけではなかった。
僕もやるからには「大阪を代表する店にしよう」と覚悟を決めたんですが世間では「やれ! と言われたから仕方なくやった」みたいに面白おかしく言わたりもしてました。でも赤井先輩の大切な店を潰すわけにはいかないですし、従業員にも誇れる企業にしようと頑張りました。
それって、ビジネスよりも人間関係というか、先輩・後輩の絆の方が強いってことですよね。
そっちの方が大きいね。
素晴らしい話ですね。赤井さんはどう思っていましたか?
俺はただ……「だるま」の串かつを食い続けたかった……。
後輩の僕らからしたらめちゃくちゃわがままな話ですよ(笑)
ですよね。でも、こうやって最後まで、責任を取ってくれているわけじゃないですか。例えば人形を作ってくれたりとか、「二度漬け禁止」を言い続けてくれたりとか。
それもあるんですけれども、ずっと「心の支え」になってますよね。金では買えないです。先輩・後輩という関係があって、プレッシャーがあったからこそできたこと。それがなかったら途中で投げ出していたかもしれない。
ご神体と上山さん。本当にそっくりそのままです。
でもビジネスとしては大成功しましたよね。
大成功だと思う。でももう一回やれと言われても無理かもしれない。
コロナ禍での変化はありましたか?
売り上げはコロナ前の6割くらい。それよりも一番大きな変化は、「二度漬け禁止」から「かけて食べてや」にしたこと。それに対して、めちゃくちゃ取材が入りました。大阪の文化の一つであり、エンターテイメントだったから。
今は、ソースにドボーンと漬けられへん。
それは早く元に戻ってほしいですね。
今はお店を移転したりリニューアルしたりしてます。こういう過渡期……ある意味ターニングポイントの年には、色々整理するのも良いかなと。お金もかかるし借金もたくさんあるけど、慌てて返さなくてもええやろ……と。
3月12日にリニューアルオープンした「だるま道頓堀店」。
今のこの時代って、儲かるから出資しようとか……打算や損得勘定で動く人が多いと思うんですけど、二人はそんな損得感情では動いていないですよね。
損得感情では動かない。
僕は道頓堀の商店街の会長をしてるんやけど、赤井先輩との関係性で教えられたのは「私利私欲を出さないこと」。商店街活動をしているときは絶対に私欲は出さない。絶対自分の店を優遇しない。商店街が良くなるようにどうしたら良いかだけを考えてる。そうしないと商店街は良くならないと思っています。
まさに「浪花節」の世界。
根本に「義理人情」があるからこそ、周りの人やお客様が応援してくれて、自分の店にまた返ってくると思うので。
義理人情を大切にしたビジネススタイル
お話を聞いていると、大阪は本当に「義理人情」の街なんだなと思うんですが、今の世の中、義理人情でビジネスする人ってほとんどいないと思うんですよ。
そうやろね。まあ結局、僕も赤井先輩も面白いことが好きだから、ずっと面白いことやって生きてきているんです。
「面白かったらOK」というのは、大阪ならではの、東京には真似できないビジネスモデルなのかなと思います。
東京の人ってお洒落でええかっこしいで、自分を絶対下げないでしょう。僕らは自分を下げて笑われて嬉しい。それに「目立ってなんぼ」っていう精神もあるやろ。
自社ビルである「だるま道頓堀店」屋上に設置した「だるまのおっさんの巨神」は道頓堀の新名所になっている。
最後にお聞きしたいのですが二人は40年の付き合いですが、お互いのことをどう思っていますか?
感謝しかないですね。「だるま」を守ってくれて本当にありがとう、ここまで成長させてくれて、嬉しいです。
僕にとっては赤井さんは、ずっと「先輩」です。これからもよろしくお願いします。
ありがとうございました。めちゃくちゃ勉強になりました。
かつての釜ヶ崎の日雇い労働者のために「安価でお腹いっぱいになり、仕事の合間にさっと食べられるもの」として、初代女将が考案したという「串かつ」。まさに、「人情」から生まれた大阪の庶民グルメ。
そして、串かつを巡る漢たちの熱い話……。
それは先輩と後輩の強い絆であり「義理人情」の物語であった。
「やっぱり串かつうめーな!」
赤井英和さんと上西雄大監督のW主演で、「浪速の人情」をテーマにした映画『ねばぎば 新世界』が2021年7月10日から公開されます。
赤井さんが演じるのは見返りを求めない人情の男!コロナ禍の状況の中人々の心の中にある「never give up」をテーマに、新世界や西成で泥クサく生き抜く人々を描く映画。なんと、赤井親分の後輩役として上山会長も出演しているそうです。
この記事を書いた人
高山 洋平(たかやま ようへい)
東京都足立区出身。大学卒業後、投資用不動産会社を経て、IT業界大手の株式会社アドウェイズに入社。独自の営業理論を武器に、中国支社(上海アドウェイズ)の営業統括本部長に。その後、2014年に株式会社アドウェイズの子会社として株式会社おくりバントを創業。年間360日は飲み歩くというプロ飲み師かつ、独自の営業論とインパクト大なキャラクターが魅力。初の著書『ビジネス書を捨てよ、街に出よ』も11月6日より発売開始予定。
取材・文:トミモトリエ
写真:Julie Watai
企画・編集:人間編集部
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