2016.06.10
乳がんと病理診断~小林麻央さんの報道発表から考える
- Kindai Picks編集部
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フリーアナウンサー 小林麻央さんの「進行性がん」闘病中報道により、世間は騒然となった。がんと病理診断の知られざる関係性と今回の報道からの学びについて、病理専門医の榎木英介講師(近大医学部病理学教室)が解説する。
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「進行性がん」に揺れた一日
2016年6月9日、フリーアナウンサーで、歌舞伎俳優市川海老蔵さんの妻、小林麻央さん(33)が「進行性がん」で闘病中であるとの報道により、世間は騒然となった。
一部スポーツ紙での報道を受け、急きょ記者会見した海老蔵さんの口から明かされたのは、麻央さんが1年8か月もの間、抗がん剤の治療を受けていることだった。
比較的深刻な状態であること、抗がん剤をいろいろ試すなどの治療を行い、現在は通院治療中であることなども明かされた。
33歳という若さでの乳がんの発症…まだ小さなお子さんがいる中の闘病は、ご本人、ご家族にとっていかほどのことか、察するに余りある。海老蔵さんが言われたように、報道や私たち一般の人たちは、ご家族をそっと見守るべきだと思う。
私は、近畿大学の広報の依頼をうけ、テレビ番組で「進行性がん」を解説した。
出演依頼を受けたのは、麻央さんの病名が知らされる前。まだ「進行性がん」としか分からない段階だ。
私が普段行っているのは病理診断だ。病理診断とは、病気が何であるか、手術して取り切れているか、病気がどの程度広がっているかなどを、主に顕微鏡で標本を見ることによって決める(診断する)という、医師しか行えない「医行為」だ。
あらゆる部位のがんを扱うため、どの部位のがんか分からない段階では適任と思われたのだろう。
私が「進行性がん」という報道を聞いて思い浮かべた部位は、子宮頸部、乳腺、胃だった。これらの部位に発生するがんは、私たち病理医が比較的よく目にする、頻度の高い疾患だ。
実際乳がんだったので、予想の範囲内だった。おかげで、海老蔵さんの会見を受けて、生放送で乳がんについて解説することができた。
乳がんの治療に不可欠な病理診断
実は乳がんの治療にとって、私たちが行う病理診断は切っても切れない深い関係にある。
病理診断を行う病理医なら皆ある程度乳がんについて解説することができるのだ。近大広報部の見立ては実に正しい。
麻央さんは、人間ドックで乳がんを発見されたという。マンモグラフィーという機械での検査、しこり、乳頭から血が出てくる、皮膚が引き連れるといった異常な所見から乳がんが疑われると、まず細胞診という検査が行われる。針で病気のある部位から細胞を取ってきて、顕微鏡でその細胞の形をみて、たちのよいものか、悪いものかを調べる。
もしたちの悪い細胞がいたら、今度は乳腺の組織を取ってきて、顕微鏡で病気の種類を決定する。
実は乳房のしこりがよいものか悪いものかを見分けるのは、容易なことではない。
顕微鏡で見ても悩むケースは少なくない。そうした場合は、国内外の乳腺の病理の専門家に意見を仰ぐことになる。病理組織の標本は数センチ角のガラスなので、郵送ができる。だから、私たちは無理に診断せず、積極的に専門家の意見を聞いているのだ。
もしががん(浸潤性乳管癌)だと分かれば、がんの種類を決める。現在浸潤性乳管癌は、エストロゲンレセプター(ER)、プロゲステロンレセプター(PgR)、HER2というたんぱく質を持っているかいないかなどを調べることで、4つのタイプに分けられる。そのタイプごとに治療法が異なる。ホルモン療法が効くタイプ、分子標的薬「ハーセプチン」が効くタイプ、そして、化学療法が主な治療法となるタイプなどだ。
これらのたんぱく質があるかないかを決めるのは、実は私たち病理医の仕事だ。
免疫組織化学染色という方法が主に使われて、これらのたんぱく質の存在の有無を判定するのは病理医なのだ。
また、手術で切り取られた乳腺をみて、がんが取りきれたか否か調べるのも病理医の仕事だ。
このように、乳がんの治療に病理診断は不可欠であり、もし私たちがミスをすれば、患者さんに多大なる影響が出る。
手術中に、取ってきた乳腺の切れ端にがんが残っていないかや、リンパ節にがんが転移していないかを調べる「術中迅速診断」を行うのも病理医の仕事だ。
乳がんでは、「センチネルリンパ節」というリンパ節にがんが転移していなければ、リンパ節をごっそりとるリンパ節郭清は行わない。
「センチネルリンパ節」は乳がんが最初に転移するリンパ節で、ここに転移がなければ、それより離れたところにあるリンパ節には転移がないということになる。
リンパ節をごっそりとる(リンパ節郭清をする)と、リンパ液がもれて患者さんに苦痛をもたらす「リンパ浮腫」が起こる可能性がある。
不必要なリンパ節郭清をして、患者さんに苦痛をもたらさないように、手術中に「センチネルリンパ節」の転移の有無を調べるのだ。
検体の取り違え、良性、悪性の判定ミスなど、トラブルになるケースも多く、ミスを起こさないように、私たちは最新の注意を払っている。
小林麻央さんの乳がんはどのような状態か
このように、私たちは病理診断という立場で、乳がんの治療に深く関わっている。
だから、海老蔵さんの言葉から、麻央さんの病状をなんとなく理解できる。
海老蔵さんは、発見されてから1年8か月、手術を行わず化学療法を中心に治療を行ってきたと述べた。また、病状を「比較的深刻」とも述べている。
このことから、発見されたときにはすでにリンパ節やほかの臓器に転移していたりするなど、比較的進行した状態だったのだろう。
化学療法を中心に治療を行っているということから、乳がんのタイプは、ホルモン療法や分子標的薬が効かないタイプだった可能性がある。
このタイプ(トリプルネガティブ(TN)、ベースライク)は、ほかのタイプに比べてたちが悪いとされている。
現在は外来で化学療法を行っており、近々手術できる可能性もあるということから、治療の効果で次第に縮小してきているのだろう。今月初めの一部報道で、麻央さんのおなかがふっくらし、第3子妊娠の可能性も、と言われていたが、これは各療法による治療の副作用、もしくはがんそのものの影響による腹水貯留だったのかもしれない。
とはいえ、あくまで会見の言葉からの類推にしか過ぎない。邪推はやめて、そっと見守るべきだろう。
病理診断の在り方に影響を与えた乳がんの患者会
乳がんは早期発見されれば完治が見込める。比較的若い患者さんも多いということもあり、乳がんの患者会は非常に活発だ。
乳がんの患者会が、病理診断の在り方を変えたこともある。
乳がんの患者会の皆さんから、病理医自身に病理診断の説明をしてほしいという要望があがった。
これを受け、各地に「病理外来」が誕生した。病理外来とは、患者会の要望どおり、病理医が病理診断の説明を直接患者さんに対して行うという外来だ。
顕微鏡をみて病気の診断をするという病理医の在り方を変える画期的な動きだ。
病理医の人手不足もあり、多くの病院ではまだ病理外来を常時行う余裕はないが、厚生労働省は病理外来を行うことを条件に、2008年、病理診断科という診療科の設置を認めた。
それまでは、患者さんを直接みないということで、長年の病理医たちのの要望にも関わらず、病理診断は診療科にはなれず、病理部、病理検査室などと呼ばれ、ほかの科から一段低くみられていた。
こうした状況を、患者さんが変えてしまったのだ。
麻央さんには、乳がんが完治した後に、ぜひ積極的に病理診断に対する要望を述べてほしいと思う。
患者さんが医療の在り方を変えることができるのだから。
勇気ある告白から学ぶこと
乳がんにかかった有名人は、麻央さんが初めてではない。プロレスラーの北斗晶さんの乳がん告白には、多くの人たちが関心を持ったし、女優アンジェリーナ・ジョリーが、乳がんが高い確率で発症する遺伝子の変異を持つことで、予防的に乳房(と卵巣)を取ってしまったという告白は、世界中に衝撃を与えた。
乳がんが女性にとって多い病気である。当然著名人の乳がんも多い。麻央さんをはじめ、著名人の乳がんは、比較的若い年齢で発症するこの病気に対する関心を高めてくれる効果がある。
私たちは、こうした方々の勇気ある告白を、自分や家族の健康に対する注意喚起と受け止めよう。
病は誰にでも起こる可能性がある。早く見つけて早く治すことが、自分にとっても、そして自分を大切に思う家族にとっても重要なことなのだから。
著者
榎木英介(えのきえいすけ)
近畿大学医学部附属病院臨床研究センター講師(病理学教室、病理診断科兼任)
1971年横浜生まれ。1995年東京大学理学部生物学科動物学専攻卒。同大学院進学(指導教官:総合文化研究科浅島誠教授)。博士課程中退後、神戸大学医学部医学科に学士編入学。医学の学業とともに、山村博平教授(現名誉教授)のもとで生化学の研究を行う。2004年卒業。医師免許取得。2006年博士(医学)。2009年神戸大学医学部附属病院特定助教。兵庫県赤穂市民病院にて一人病理医として勤務の後、2011年8月からは近畿大学医学部病理学教室医学部講師。2015年4月から現職。病理専門医、細胞診専門医。近著は「医者ムラの真実」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、「嘘と絶望の生命科学」(文春新書)ほか
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