2026.10.03
世界へ挑み、未来を育てる。近大医学部で描く医師としての夢

- Kindai Picks編集部
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近畿大学には人間味あふれる医師が多いそうです。最先端の医療体制が整う「おおさかメディカルキャンパス」と、受け継がれる「患者さんファースト」の精神。「治せる医療」を信じて世界へ飛び出した医学部の血液・膠原病内科主任教授の賴晋也先生にお話を伺いました。そこには変わりゆく医療設備と、決して変わることのない理念がありました。
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1980年生まれ。2005年 近畿大学医学部 卒業
専門分野:血液・腫瘍内科学、悪性リンパ腫、白血病、分子標的治療
悪性リンパ腫や白血病などの造血器腫瘍に対する分子標的治療を専門とする医師。テレビ番組などの各種メディアを通じて最新の医療情報を発信するなど、啓発活動にも尽力している。主任教授を務める内科学教室(血液・膠原病内科部門)では、多様なキャリアパスを描ける体制整備を進めるなど、各人の夢や目標を応援し、伴走できる教室をめざしている。
教員情報詳細
父の背中が教えてくれた、医師を志した原点
——医師を目指すようになったきっかけを教えてください。
父が外科医をしていました。だからといって「医師になれ」と言われていたわけではなく、今振り返れば、父の背中を見て育ったのだと思います。父は開業医で、クリニックは自宅からは離れていて、普段は行くことがほとんどなかったんです。たまたま私が訪ねた時、父の背中が見えたんですね。その背中が、いつもより大きく見えたのを覚えています。父が白衣を着て、仕事をしている姿を見たことがなかったので、とても印象的でした。小学校4、5年生の頃の記憶だったと思います。
——当時のお父様の背中が、人生の道標になったのですね。それから近大の医学部を目指すようになったのは、どのような経緯があったのでしょうか?
中学受験をして、高校までの6年間は楽しく過ごしていました。進路を考える時期になり、どこかで医師になるという幼い頃からの選択肢が脳裏に残っていたんですね。ただ、学力が追いつかなかった。とてもじゃないけれど、医学部には行けないような成績でした。高校3年生になり「このままじゃダメだ」と、自分の勉強に対する意識を考え直すようになりました。その頃に実際、近大を見に行ったんです。当時の大阪狭山の校舎は赤レンガで「カッコいい大学だな」と思っていました。それから実際に近大の試験問題をやるようになったんですね。高校3年の夏のことです。学力は追いついていなかったですし、受験に取り組むのも遅かった。ただ、やっぱり医者になりたいという思いは強かったです。近大病院も見たことで「これだな」と決めて、入学するためだけに猛勉強をしました。実は、ここしか受けていないんです。具体的に近大で医者になるぞと決めたことでギアが入って、めちゃくちゃ勉強をしました。
——ご両親は喜んでいたのではないですか。
それはわかりませんが、両親にはめちゃくちゃ感謝していますね。私立の医学部は学費が高い。それでも医者になることを許してくれた。近大を受験すると決めてからは、とにかく頑張るだけでした。僕は兄弟3人で、下に2人の弟がいますが、別の道を進んでいます。誰もならなかったかも知れないのに、僕だけが医者になると言い出した。弟2人はむしろ医者にはなりたくないと言って、今は企業で働いています。父は忙しくてほとんど家には帰ってこれなかったのですが、自由に育ててくれたと思います。僕は運よく、浪人をせずに医学部に入学することができました。
仲間と学び、支え合った、忘れられない医学部時代
——学生生活はいかがでしたか。
普通の大学生と同じような生活をしていました。軽音部に入り、友達もたくさんいましたし、いわゆる大学生活を楽しんでいる学生でした。バンドではベース。医学部の軽音部でしたので、今でも昔からのバンド仲間であり、医者としての仲間でもあります。学生の頃はテストになると、みんなで集まってコミュニティーを作り、「全員で進級するぞ!」というような団結心が生まれました。金曜日になると友達の家に集まって、みんなで徹夜で勉強をするんです。当時の仲間とは今でも定期的につながりがあるのですが、奇しくもバンド仲間の2人は僕と同じ血液内科。病院は違いますが、これも巡り合わせだと感じています。
——医学部で学んだことで、特に印象的なことはありますか?
近大は温かくて、優しくて、面白い。そんな先生がたくさんいるんです。僕にはそういう雰囲気が合っていました。近大の人たちは楽しいですね。僕たちが在学している頃から勉強の面では厳しくなって、毎週のようにテストを受けさせられました。それをパスしないと次には進めない。勉強は辛かったですが、みんなでやることがルーティーンとなり、テストがあるたびに僕たちの団結心を強くしてくれました。
新病院で広がる可能性。「おおさかメディカルキャンパス」の強み
——新しく完成した「おおさかメディカルキャンパス」について教えてください。
働きやすくて気持ちがいいですね。狭山のキャンパスとは環境がガラリと変わりました。僕たちがいる血液・膠原病内科は免疫が失われている免疫不全の方が多いんです。新病院は血液内科の43床全てが無菌室になっています。これはすごいことで、とてもいい環境で診療をさせてもらっています。
オープン医局になったことで、先生方と面と向かって話をすることが多くなりました。新しい病院は救急医療にも特化しているので、患者さんの状態が悪くなればすぐにICU(集中治療室)の先生方が快く受け入れて助けてくれるようになり、心強い横のつながりが増えました。また、狭山の病院と比べると設備も格段に充実しています。スムーズな救急対応ができるよう、現場の動線が非常によく考えて作られている点も大きいですね。
患者さんも増えたことで多種多様の病気を抱えた方が集まってきています。それらを含め、僕たちにとっては学びながら診療にあたる機会になっています。診療棟の設備だけでなく、研究棟も充実しています。いろんな機械がそろっていて、スペースも十分に与えられているので、最新で一流の設備があります。
——大阪狭山市の近大病院も長い歴史があるので、愛着もあったのではないですか?
確かに、それはありますね。狭山のキャンパスが良かったのは、学生との距離が近かった。こっちに来てからは、診療棟と学生が学ぶ教育棟が離れているので、コミュニケーションを取る距離が遠くなってしまいました。その点だけが新キャンパスで唯一、何とかしないといけないと考えている点です。セキュリティーの問題があるので、学生がすぐに診療棟に入れないんです。
ですから、学生さんたちとコミュニケーションを取りたいとの思いで、定期的に勉強会をするようにしています。各々の部屋のラーニングブースにはモニターがあって、パソコンをつないでディスカッションをすることもできます。昔はなかったのですが、今はたくさんそういうブースがあるので、意識的にこちらから出向けば、学生と一緒に学ぶ場所は与えられています。

若い医師を育てたい。教授として目指す新しい医局づくり

——医学部の学生とはどのような取り組みをしているのですか?
「血内(血液内科)座談会」というグループを作って、定期的に集まっています。今は学生が10人くらいいて、月1ペースで学年を問わずにやっています。僕がプレゼンをしたり、学生のプレゼンに対して指摘をしたり。「これをやりなさい」ということは一切なく、「これをやりたい」という自発性を持った学生が来てくれています。もともと学生とコミュニケーションを取る機会がなかったんです。なんとかならないかと考えていた時に、興味ある人たちを探していたら「やりたい学生はたくさんいますよ」と一人の学生に教えてもらい、仲間が集まったという感じです。
きっかけは、僕たちがやっている血液・膠原病内科を知ってもらいたい、若い人たちをいかに惹きつけるかを考えたい。そういうところから始まって、リクルートの意味合いもあります。僕の頭の半分は今、後進をどうやって育てるかに向いています。
——教授になるまでにはどのような経緯があったんですか?
僕が教授になったのは昨年10月からですので、「おおさかメディカルキャンパス」の設立とほぼ同じ時期になります。
松村到学長は、僕の先代の教授にあたる方です。白血病などの研究のみならず、血液学会の理事長として血液学という分野全体を牽引されてきました。そのような偉大な先生の下で、僕は本当に自由にのびのびとやらせていただきました。医者として、研究者として、ずっと松村先生の背中を追いかけてきました。今の僕の基盤はすべて松村先生から教わったものであり、ただただ感謝しかありません。僕が「海外で学びたい」と打ち明けた際も、先生は僕の背中を強く押してくださいました。「心置きなく思いっきりやってきなさい。挫折したらいつでも帰ってきなさい」。そんな大きな安心感を与えてくれる優しい言葉があったからこそ、僕は迷うことなく挑戦し、今の基盤を築くことができたのだと思います。
カナダに悪性リンパ腫を専門とする世界有数の研究室があり、そこで2021年からの5年間、勉強をしてきました。ブリティッシュコロンビア大学の研究員として、専門分野は血液の病気、リンパ節のがんである悪性リンパ腫の研究をしていました。
「治せる医療」を信じて。胸に刻まれる研修医時代の記憶
——なぜ血液・膠原病内科の道へ進もうと思われたのでしょう。
患者さんを治せるところに行きたかったのです。血液のがんは、生活習慣病で発症するとかではなく、ある日突然、何の因果関係もなく起こってしまう病気です。水泳でオリンピックにも出場した池江璃花子さんが、そうですよね。急になってしまう。私が診てきた患者さんは、とてもいい人たちが多くて、どうしても治してあげたいと思うようになりました。造血器腫瘍は、かなりの確率で治ります。治せる「科」に行きたい。それが理由です。
決めたのは大学5年生の頃でした。血液・膠原病内科の医局の雰囲気が楽しかったこともあります。良い先生がいて、僕が学生の時に診た患者さんもいい人が多かった。血液のがんになって苦しんでいた患者さんが、あれよあれよと言う間に普通の人に戻っていく。造血器腫瘍はまるで雪山の天気のように1ヶ月スパンで変わります。すごく、やりがいのある仕事だと感じていました。
今までの人生、あまり悩んだことがないんです。近大に入ることも、血液内科に進むことも、その選択肢しか考えていなかった。患者さんの抱えている病気を治すこと。これからも、それは変わることなく継続していきたいですね。
——これまでの患者さんとの出会いの中で、忘れられないエピソードはありますか?
先ほどは、治せるというお話をしましたが、治せなかった患者さんもいました。僕がまだ医者になって1年目、研修医の時に出会った方でした。ストレートな表現で伝えるなら、昔、ヤンチャをしていたような大阪の少しややこしそうなオッちゃんでした。個性的なキャラクターで、まだ若い研修医なんかが病室に行っても何も言うことを聞いてくれないような方でした。毎日、病室に通いました。今思えば、その患者さんに信頼されたくて、一生懸命だったんだと思います。
ある朝、症状が急変し、人工呼吸器を付けないといけない状態になりました。僕はたまたま違う病院に行って夕方まで戻れなかったので、他の先生が人工呼吸器を付ける説明をしたのです。人工呼吸器を付ければもう二度と話せなくなる可能性もありました。重い決断をすることになった患者さんは、頑なに固辞をされて、僕が帰ってくるのを待っていたそうです。
病院に戻った時には、呼吸がひっ迫した状態でした。僕は正直に伝えました。
「人工呼吸器を付ければ、うまくいけばまた元気になりますが、最悪の場合はそのまま息を引き取ってしまうこともあります」
すると、「先生に任せる。先生が決めたことなら、それでいい」と。
人工呼吸器を付けてから、しばらく後に亡くなってしまいました。
若い頃に出会ったその方には、いろんなことを学ばせてもらいました。最後に信頼をしてもらった嬉しさはありましたが、自分の治療法が本当にそれで良かったのか。反省をしながら、学ぶことを続けている背景には、あの時の出来事があったからです。
残念ながら治療の甲斐なく亡くなられる結果になったとしても、患者さんが心から納得できる治療を提供することが僕たちの仕事です。患者さんからの信頼を勝ち得た時には、必ず何かが生まれると信じながら、これまでもやってきました。
今の若い学生に、こういう話がうけるかどうかは分かりませんが、そういう昔ながらの泥臭いところが、近大病院にはあるのです。
——新しいものを取り入れながら、古き良きものは残していく。人間味あふれるのが近大の特徴だと感じることができました。
そうですね、近大の先生は人間味があると言うのは、その通りかも知れません。熱い人も多いです。嘘偽りなく、「患者さんファースト」の先生が多いです。最近でも、医局の先生に用事があって、診療が終わるのを後ろで待っていたら、患者さんの悩みをずっと聞いているんです。病院のこと(経営面)を考えたら、回転率を上げないといけないのに、患者さんの心にまで寄り添う優しいところがある。それが近大出身のお医者さんの特徴だと思います。
最先端医療「CAR-T療法」が切り拓く、血液がん治療の未来
——少し専門的な医療のお話も聞かせてください。近大は高度先進医療のCAR-T療法を積極的に取り入れているとお聞きしたことがあるのですが、どのような医療法なのか教えてください。
がんになる時は、自分の免疫細胞が弱っていて機能していないんです。免疫が強ければ、がん細胞をやっつけてくれる。その理論に基づいて、それでは免疫細胞を何とか強くしましょうというのがCAR-T療法です。細胞を体から取り出して、それを試験管の中で遺伝子操作をし、免疫が活性化するように仕向ける。 現在はアメリカで遺伝子操作をしています。患者さんから細胞を取り出し、それをアメリカに運んでがんにだけ攻撃するように再教育をして活性化した細胞になって日本に戻ってくる。それが、がんをやっつけてくれるというものです。
従来の治療法である点滴で抗がん剤を投与するものとバリエーションが増えていますが、CAR-T療法は正常な細胞を傷つけず、がん細胞にしか攻撃をしないので副作用が少ないのが特徴です。理想はがん細胞だけをやっつけることなので、がんの特徴であるタンパク質の「旗」を出している分子を標的にすることで、そこを目指して攻撃してくれるというものです。目安としてアメリカで再教育をして戻ってくるのに3週間ほどかかります。南大阪では近大が積極的に取り組んでいる治療法になります。
——近大には最先端の設備とともに、最先端の医療技術があるのですね。
研究室は海外と比べても遜色のない施設が整っています。医学生の中で自分の可能性を高めたいという人がいれば、何でもできると思います。やりたいことがほぼできるのがこの大学であり、それらを伝えていくことがこれからの僕の使命です。医者としての「心」を持つ人を育て、夢を後押しする環境作りに注力していきたい。コロナ禍真っ只中の頃にカナダに渡ってから5年間、日本の医療・研究が世界と比べて、どれだけ足りないものがあるのかを見てきました。「いい医者であり続けること」に加えてプラスα、自分のやりたい研究を突き詰めていくことも大事。医局を飛び出して研究生としてカナダに行っていた期間は楽しかったですが、今後の自分の人生はどうなるんだろう、日本に帰っても戻る場所はないかも知れないという不安もありました。
世界に認められる研究成果を追い求めて
——挑戦することは大切ですが、確かに先生がおっしゃる通り「退路を断つ」ことへの不安は相当なものがあったのでしょうね。
環境が人を変える。世界へ挑戦していくアスリートと同じです。海外に行って世界との差を感じ、成長したいから僕はカナダに行きました。ただ、ずっと不安があったのは事実です。挑戦する研究者はたくさんいるけれど、中には何も芽が出ずに辞めていく人もいます。結局は「運」なんです。ただ、その運をつかむか逃すかは自分の行動にかかっています。圧倒的な努力をして、もがきながらも頑張り続けた人間だけが、その運をつかみ取る切符を手にできるのだと思っています。
——最後に、夢を聞かせてください。
医師として、できることなら、ここから大きな仕事をしたいです。世界に認められるような、いい研究成果を出したい。それが出るということは、それをする人が育つということ。優秀な人が集まり、力を結集して成果を出す。それをするためには、いい人材をたくさん育てないといけないと考えています。
取材:西尾彰彦
文:益子浩一(株式会社SUN LOGUE)
写真:栗山朋久
編集:株式会社アド・ダイセン
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