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2016.04.07

挫折と失敗を力に。iPS細胞は「塞翁が馬」から生まれた/山中伸弥 iPS細胞研究所長 (動画&全文)

Kindai Picks編集部

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平成27年度近畿大学卒業­式にて、特別ゲスト iPS細胞研究所 山中伸弥教授が卒業生へエールを送った。
卒業生5,000人の心を震わせたメッセージは、未来に目を向け挑戦を続ける全ての人への叱咤激励にもなるに違いない。

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▼「平成27年度近畿大学卒業­式」iPS細胞研究所 山中伸弥教授メッセージ(16:16)(YouTube)

*平成28年(2016年)3月26日 平成27年度近畿大学卒業­式より


▼山中伸弥教授スピーチ全文

近畿大学卒業生の皆さん、本日はご卒業誠におめでとうございます。また、ご両親ご家族の皆さん、本日、本当におめでとうございます。実は、私の娘もですね、つい最近大学を卒業しました。ですから、皆さん、今日お集まりのご両親、同じような気持ちでおります。本当に長年の子育てお疲れ様でございました。

ということで、卒業生の皆さん、今日、皆さんに私の大好きな中国のことわざをお伝えしたいと思います。それは、「人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)」。略して「塞翁が馬」。こういうことわざです。


「塞翁が馬」塞というのは、お城です。中国のお城の近くの村に、「塞翁」の翁というのは「おきな」おじいさんですね。おじいさんが、いたらしいです。そのおじいさん、唯一の財産は、一頭の馬。そして、一人息子さんと住んでおられたらしいです。
ところがある日、その唯一の財産の馬が逃げてしまいました。すぐ、村人たちが集まってきて、おじいさんを「大変ですね」と慰めにきました。でも、おじいさんは冷静に「いやいや、これは何か良いことの始まりかもしれない」と言いました。
そうすると、2,3日すると、その馬が帰ってきて、しかも、その馬よりもさらに良い名馬を一緒に連れて帰ってきました。すると、村人はまたすぐ集まってきて「いやーおじいさん素晴らしい。良かったですね」とやってきました。でも、またおじいさんは「いやいや、これは何か悪いことの始まりかもしれない」と。すると、その息子さん、やってきた名馬に乗っていましたが、落っこちてしまって、足を複雑骨折してしまって、歩けなくなってしまいました。
また村人がやってきて「おじいさん、えらい災難ですね」とやってきました。しかし、おじいさんは「いやいや、これはなにかいいことかもしれない」と。しばらくすると、戦争が起こりました。村の若者は、ほとんど全員が死んでしまいました。でも、おじいさんの一人息子は、脚を怪我して歩けなかったので、戦争に行かずに生き残れました。

そういう話らしいです。村人の様に、一喜一憂するのではなくて、おじいさんの様に、こうどっしり構えよう。そういう意味だと思います。


私が大学を卒業したのは、今から29年前です。約30年間、社会人として過ごしてきましたが、この30年、私にもたくさんの「塞翁が馬」がありました。

私も医学部を卒業して医者になったわけですけれども、一番喜んでくれたのは父親だったと思います。なぜなら、父親が私を医学の道に押してくれたからです。私の父は東大阪市で、小さな町工場を営んでおりました。町工場ですから、自分も一生懸命毎日作業をしていました。その時の、私がちょうど中学生くらいですけれども、その時の怪我が原因で、輸血をすることになって、その輸血が原因で、肝炎、肝臓の病気になってしまいました。どんどん病気が酷くなっていって、まあそのことが原因で、私の父は、息子である私に、経営者ではなくて、医学の道を勧めてくれたのかなと思っています。

そして、いよいよ医学部を卒業して、就職しました。当時はですね、自分の行き先の病院、自分では決められずに、大学の教授が決めるような仕組みでした。私が行けと言われた病院は、大阪にあるほんとに立派な、新しく建て直したばっかりの素晴らしい病院でした。ですから私は「これはラッキーだ」「こんないい病院で働けるんだ」と喜んで働き始めましたが、これが「塞翁が馬」の始まりでした。
喜んで働き出したんですが、待っていたのは鬼より怖いような上司の先生でした。僕はその後2年間、怒られなかった、怒鳴られなかった日は一日もありません。毎日もう、ほんとにもう、凄い目に遭いました。山中という名前ですが、山中と呼んでもらったことはありません。何て呼ばれていたかというと「ジャマナカ」。「こら、ジャマナカ、ジャマナカ」と毎日呼ばれていました。さらに、その2年の間、大好きだった父親が亡くなってしまいました。医者としての自信、毎日怒鳴られて、外科医だったんですが、手術もうまいこといかない。しかも、実の父親まで助けてあげることができなかった。ということで、医師としての自信を全く失ってしまいました。

どうしてこの後人生過ごして行こうかなと思ったときに、なろうと思ったのが研究者です。学生時代から研究に興味がありました。いったんは臨床医になったのですが、自分の父親のような患者さんを全く助けてあげることができませんでした。どうしたら、こういう、今の医学では治せない患者さんを助けることができるかなと考えて思いついたのが、研究者でした。
そこからもう一度大学院に入りなおして、研究者の道を歩み出しました。その後、アメリカにも行って、研究のトレーニングを続けました。その時はこれが天職だ。臨床医としては全然だめで逃げ出して研究者になったわけですが、研究者としては才能があるんじゃないかと思いました。アメリカでの研究が非常に順調で、「これでようやく天職を見つけた。この後はずっと研究者で頑張ろう」と思って日本に帰ってきました。
当然、日本でも研究者で頑張ろうと自信満々で帰ってきましたが、アメリカとですね、日本の研究環境が全然違って、日本に帰ってきたらすぐに、また自信を失ってしまいました。アメリカでうまいこといっていた研究が、日本では全くうまいこといかないんです。日本に帰ってきてやっていたのは、実験動物、ネズミですけれども、何百匹というネズミの世話をする必要があって、毎日毎日、200匹、300匹のネズミの世話ばっか。自分が研究者なのかネズミの世話係なのか分からない、そんな毎日。そういう間に、これはやはり研究者としてもだめだと、また自信を無くしてしまいました。

「どうしよう、このまま毎日ネズミの世話ばかりしていても、役になんか立つわけがない」その時、もう一度臨床医に戻ろうと思いました。もう一度外科医に戻って、もう一度一からやり直して、その方が世の中の役に立つと思って、本当に研究者を逃げ出して、もう一度臨床に戻る直前まで行きました。
でも、これ二回目ですよね。逃げ出すのが。一回目は臨床医になろうとしたんですが、逃げ出して研究者になったんです。そして、アメリカまで行って、今度は研究で頑張ろうと思ってたんですが、またちょっとうまいこといかなくなると、また逃げ出して臨床医に戻ろうと。

さすがに二回目になると、私もなかなか踏ん切りがつかないわけです。こんなに何べんも逃げ出していいものなのかな。どうもこう、踏ん切りがつかない。そんな時、ある日、当時住んでいた大阪市内で散歩していましたら、目の前にとってもいい感じの空き地があったんですね。僕はその時に、その土地を買おうと思いました。その土地を買って、そこに家を建てて、そして家族と一緒に住んで、それを踏ん切りにして研究者をやめて臨床医に戻ろうと思いました。
研究者よりも臨床の先生の方が、日本は給料が良いんですね。アメリカだとあんまり変わらないんですが。日本はやっぱり臨床の先生の方が給料もいいですから、それを踏ん切りにしてこの家を建てて、それから後は臨床医として頑張ろうと。
不動産屋に行って手付金を払って、いよいよ契約の日がやってきました。そうするとその日、いきなり当時離れて暮らしていた母親から電話がかかってきたんですね。何を言い出すかと思うと「伸弥、アンタ家を、土地を買うらしいけども、昨日の晩お父ちゃんが夢枕に立った」と。で何を言い出すのかと、こう見えても研究者なのに、何を言い出すのかなと思ったんですが、「いや、お父ちゃんが夢枕に立って、伸弥に思い留まるように言えとそういったんだ」と言うんですね。
僕は何を言っているんだと、もう35歳くらいの息子を捕まえて、親父が夢枕に出てきたとかそんなこと言われても、そんな無理だと思ったんですが、さすがに母親にそういわれると、なんかこう一日だけ待ってみようかなと思って、不動産屋さんに電話して、「すいません」と、「契約今日だって言ってましたが、一日だけ待ってもらえますか」と言いました。不動産屋さんは「はい、分かりました」と。ところが、その日の夕方に、その不動産屋さんから電話がありまして「山中さん、申し訳ありませんがあの土地、他の方に売れました」と。
それは、僕にとってはですね・・・本当にこれを踏ん切りに研究者をやめて、臨床医に戻ろうと思っていたその土地がなくなってしまって。その時は本当に母親のことを恨みましたし、また夢枕に出てきた父親にも「何ちゅうことすんねん」と思って恨みましたが、そのことが結局は研究を辞めずに踏み留まることになって、その6年後ぐらいに、iPS細胞という技術に出会うことができました。

そして、2012年にはノーベル生理学・医学賞を受賞いたしました。でも、もちろんノーベル賞をもらったときはうれしかったですが、これも「塞翁が馬」です。一見、いいことですよね。こういう賞をもらうというのは。しかし、その賞をもらったことによって、大変なこともいろいろありました。
この2012年から3年間の間で、私は、あんまりやりたくもない謝罪会見というのを2回もやっているんです。それもノーベル賞でいろいろ注目を浴びるようになった結果です。ですから、ノーベル賞をもらったことも、やっぱり「塞翁が馬」。でも、ノーベル賞をもらってもちろんいいこともたくさんあります。今日、この近畿大学の卒業式に呼んでいただいたのも、ノーベル賞のおかげだと思っています。

皆さん、近畿大学、こんだけたくさんの卒業生、OBの方、凄い力です。これから社会に出られて、いろんなことがあると思います。皆さんそれぞれに「塞翁が馬」があると思います。だから、人生は楽しいとも言えると思います。でもその時に、いいことばかりではなくて、一見大変なこともきっと起こると思います。その時は是非、この「塞翁が馬」ということわざを思い出していただいて、村人のように一喜一憂するのではなく、おじいさんのようにこうどしっと構えていただきたい。特に、一見良くない事が起こったその時こそ、「いや、これはチャンスかもしれない」と、そんな風に考えてもらいたいと思います。
また、このたくさんの卒業生、同窓生、このつながりというのも、もの凄い力になります。これからの長い長い人生、今まで皆さんが送られてきた人生よりも遥かに長い人生が、皆さんの目の前に待っています。これからのご活躍を心よりお祈りしております。本日は、誠におめでとうございます。

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