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2015.12.25

“やりがい” は華やかな仕事の中にだけあるわけではない-「義肢装具製作」で世界から感謝される会社が目指すもの

Kindai Picks編集部

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手足を失った人のための義手や義足、そして怪我の治療に用いるコルセットやサポーター。これら義肢装具を製作する企業「中村ブレイス」の取り組みは、いつしか日本国内のみならず世界のメディアで取り上げられるようになった。そんな日本を代表する会社を作り上げた中村俊郎氏が語る、一工房技術者時代から起業までの道のりと、仕事をする上で大切にしている考え方とは?

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PROFILE
中村俊郎(なかむらとしろう)
中村ブレイス株式会社 代表取締役

1948年島根県生まれ。1966年に島根県立大田高校を卒業し、京都の大井義肢製作所(現・大井製作所)に入社。その後、仕事を続けながら近畿大学の通信課程(短期大学部商経科)にも通い、1971年に卒業。2年半に及ぶアメリカでの研修を経て、1974年に地元の島根県大田市大森町で中村ブレイスを創業した。『日本でいちばん大切にしたい会社』『世界から感謝の手紙が届く会社』といった書籍や、『カンブリア宮殿』『地球ドキュメント ミッション』をはじめとするテレビ番組など数多くのメディアで取り上げられている。文部科学大臣表彰、ものづくり日本大賞特別賞、渋沢栄一賞、ソーシャル・ベンチャー・ビジネス賞最優秀賞など、受賞歴も多数。さらに、島根県大田市の石見銀山(いわみぎんざん)の世界遺産登録(2007年)にも尽力し、現在は石見銀山資料館の理事長も務めている。





目の前にあるチャンスをつかみ取り、がむしゃらに行動してきた。



―日本を代表する義肢装具メーカーとして既に多くのメディアに取り上げられていますが、そもそもなぜ「義肢装具」というものに興味を持ったのでしょうか?


正直、この分野に特に興味があって始めたというわけではありません。高校生の時、15歳年上の姉が地元の病院に勤めていて、そこの医師に「京都に義肢装具を作っている製作所があるよ」と紹介してもらったのが最初のきっかけです。私は5人兄弟の末っ子で、親は既に退職していましたから、本当は大学に行って勉強したかったのですが就職することにしました。



熟練の技術が光る、シリコーン製の人工乳房や人口補正具。この技術が次世代の社員に受け継がれる。


―実際に仕事をされてみて、いかがでしたか?

就職したのは京都の中心街にある会社でしたが、あくまでも小さな町工場ですから設備が整っていたとは言いがたい。工場にはドロドロの石膏が入ったバケツなどが散在していて、普通の人なら尻込みしてしまうような環境でした。でも私は「面白い会社に入ることができたな」と思いました。自分は団塊の世代で、同年代との競争が激しいことはわかっていましたので、こういうニッチな分野で個性の強い仕事をすれば生き残れるのではないかと考えたのです。もちろん純粋に、こういう世界があるということを知ることができたという喜びもありました。


―仕事内容としては、技術者として義肢や装具を作っていたのですか?


そうです。加えて営業みたいなこともしていて、近くの大学病院へ行き、整形外科の医師や看護師から患者さんの話を聞いて、仕事をもらっていました。

この会社に就職する時、「京都なら、もしかしたら大学で学ぶ機会があるかも」という期待を持っていたのですが、目の前にいるお医者さんたちは、まさに大学で学び、中には海外留学もしてきたエリートばかり。一方、当時の義肢装具の世界は、みんな見よう見まねで作ってるようなもので、リハビリや骨格や解剖の専門的なことは知りませんでした。私は彼らに対して羨望の気持ちを持つと同時に、自分とは違う次元の人たちなんだなという気持ちを持っていました。

ある日、一人の医師に「コーヒーでも飲みに行かないか」と誘われ喫茶店で話をした時に、義肢装具には教科書やちゃんとした文献がないこと、やりがいのある仕事をしているのはわかるが何となく忙しいだけで毎日が過ぎていってしまい不安であることを話してみました。すると、そのお医者さんは私の話を聞いて「あなたは幸せだね」と言ったのです。「これから君が勉強していけばいいじゃないか。そういう立場になれるのは幸せなことだよ。自分で道を開きなさい」ということを伝えたかったのだろうと思います。




働きながら近畿大学に通い続けた経験が、その後の人生に欠かせない「自信」に。



―それで義肢装具の専門的な勉強をするために大学へ?


まずは大学教育というものに触れたかったので、とにかく大学へ入ろうと決意し、仕事もやめるつもりでいました。しかしある日、新聞で近畿大学の通信課程の募集記事を見つけて、そこに飛び込むことにしたのです。


―仕事を続けながら通ったのですか?


京都で夕方まで仕事をして、そこから2時間半かけて東大阪のキャンパスへ行き、授業を受けて学食を食べて、また2時間半かけて戻ってくるという生活を、週に3日か4日続けていました。電車の乗り継ぎを間に合わせるために駅で走ったりなんかしながらね。我ながら、よくもまあ、あんな無理をしていたよなと思います(笑)。一時期、体重が47kgにまで減りましたから。京都・東大阪間を通い続けるのは、ものすごい荒行でしたね。


―かなりハードな生活を送られていたのですね。その後、無事に卒業を?


順調にいけば2年間で卒業する課程でしたが、私は4年間かけてなんとか卒業することができました。しかし、仕事をしながら通っていたことだけでなく、親に仕送りをしながら自分の学費も払って卒業したことで、「どこへ行ってもきっとやっていける」という自信が持てるようになり、「次はアメリカへ行って義肢装具の武者修行をしよう」と考えるようになっていきました。



新しい世界に飛び込んでみたことで、自分のキャリアが切り開かれていった。



―会社をやめてアメリカに行ったのですか?


まずは自分へのご褒美という意味も込めて、1カ月間アメリカの視察旅行へ行くことにしました。義肢装具の仕事をする上でのヒントが何か得られればいいなと思って。当時はまだインターネットはありませんでしたが、自分なりに得た知識で義肢装具に関係する会社や大学に手紙を送り、サンフランシスコ、ロサンゼルス、デンバー、ニューオリンズ、ニューヨークなどを回ることにしました。会社には休みをもらって…。今振り返ると随分と好きなことをさせてもらっていたなぁと思いますよ(笑)


―現地ではどんな経験を?


まずはサンフランシスコ。義肢装具の世界的なパーツメーカーを訪問したところ、副社長がえらく私のことを気に入ってくれました。政府の代表でも大学の研究者でもない工場で働く一個人が、アメリカの会社を探して訪問したことを評価してくれたのです。そして、アメリカに来たならぜひここへ行きなさいと、ロサンゼルス近くの住所が書かれた紙を渡されました。どうやらそこは義肢装具を作ってる小さな町工場。「せっかくアメリカまで来たんだから大学や大きな工場に行きたいなぁ」と初めは躊躇していたのですが、あまりにも一生懸命に「ここへ行きなさい」と勧めてくるものですから、私はその住所を訪ねることにしたのです。

渡された住所の場所まで行き、看板を見つけて中に入ってみたところ、やはり従業員わずか10数名の小さな義肢装具のメーカーでした。自分の名刺を渡して「フロムジャパン」と伝えたところ、奥から出てきたのはオーナー。少し話をしたところ、そのオーナーは日系二世で、奥さんのご両親はなんと島根県出身だということがわかりました。まさかアメリカで、島根県に関係のある人に出会うとは…。本当に驚きでしたね。

慣れない土地と時差ボケで疲れていた私は、もうホテルに戻って寝たかったのですが、そのオーナーに「せっかくだからうちに来て一緒にお茶でも飲もう」と誘われたので、ついていくことにしました。すると、「お金も言葉も十分ではないのに、一人でこんなところまで来るなんてすごい人だ」とまた褒められ、「こういう人をアメリカで勉強させてあげたい。もしよかったら、うちで働かないか?」と言ってくれたのです。自分のこれからの修行先を探すためでもあったアメリカ視察旅行。すべてを懸けてアメリカに来て、本当に良かったなと思いました。


―その後、実際にそのオーナーのもとで働くことにしたのですか?


最終的には2年半お世話になりました。ただしその前に、ビザが取れず出国できないという状態が半年くらい続いたのです。京都の会社は退職したのに、何度申請しても就労ビザがおりない。当時はアメリカでドルを稼いでくるような人が多く、当局も審査が厳しかったのです。これはもう駄目かと思ったこともありました。しかしある日、父親に「行きたいけど、もしかしたら行けなくなるかも知れない」と漏らしたところ、「そんなに気持ちがあるなら、泳いででも行ってこい」と言われ、諦めずにやれるだけのことはやろうと決意。就労ビザは無理でしたが、旅行ビザで3泊4日だけの渡航許可をもらって、とにかくもう一度アメリカへ行くことにしたのです。

アメリカに着いたら、受け入れ先のオーナーが「心配しなくていいよ」と言いながら移民局へ連れて行ってくれて、そこで偉い人と口論しながら一生懸命に説得してくれました。そして、まずは滞在期間が2週間だけ伸びたのです。私のわがままのために喧嘩してまで説得してくれて、本当にもう涙が出る思いでした。その後、さらに1カ月、さらに数カ月…と繰り返しながら研修という形で働き、最終的に2年半アメリカにいることができたというわけです。


研修先の社員との集合写真(後列左から3番目の男性が中村さん)



いつまでも自分で手を動かすのではなく、チャンスを与えて後輩を育成せよ



―帰国後は地元の島根で起業し、現在では社員を指導する立場ですね。技術者でありながら後輩を育てるという立場として、心掛けていることはありますか?


ものづくりにこだわると、いつまでも手を出したくなってしまうものです。技術職の人は誰だってそうだと思います。失敗することを考えると、任せるのは難しくなる。でも、私は自分の技術を伝えて若者にチャンスを与えることが、その人の無限の可能性を引き出すことになると思いますし、そうすることで世界中の人に私たちの製品を届けることができるようになるのです。

現実的には、体力的な問題もありますね。40歳くらいまでは日曜日もほとんど休みなく、極限まで働いてきましたし、近畿大学に通っていた時もアメリカに行っていた時も同じような生活でしたから、それが当たり前だと思っていました。しかし、素直に自分の限界が来たと感じたのです。このまま休まずに働いていたら死んでしまうのではないか、と。


創業日に会社の前で撮影。40歳ぐらいまでは、ほとんど休みもなく働いた。

―自分で手を動かさなくなってからは、どのような仕事を?


経営のことはもちろん、国内外の学会のジャーナルに会社の成果を投稿したり、新しい企画に関する仕事をしたりしています。手を動かさなくなっても、ソフト面では活躍し続けられるのではないでしょうか。むしろそうした方が、チーム全体としては、より成長できると思います。


―最近は、マネジメントで困っているリーダー層が多いようです。


昔は「叱って育てる」ということが容認されていましたし、叱られる側も慣れていましたから、翌日になればまたケロッとした表情で働いていたんですよ。でも、今はすぐにパワハラ問題になりますから、30代・40代の管理者層は大変でしょうね。言いたいことが言えなくなってきている。


―そういう人たちが、部下や後輩を育成するためにはどうすればよいでしょうか?


まずは、自分が考えていることを精一杯、伝えていくことが大切だと思います。自分のパーソナリティなども含めて、とにかく一途に伝えていく。そして、褒めるところは徹底的に褒める。もちろん暴力はいけませんが、悪いことをした時には心を鬼にして接することがあってもいいと思います。「相手のために」という気持ちで全身全霊で叱れば受け取ってくれるものですし、そういうことがあるからこそ、褒められた時の喜びもひとしおなのだと思います。

あとは人のせいにしないということですね。後輩がすぐに成果を出せなくても、どこまで諦めずに接することができるかが、先輩としての度量です。20年ずっと面倒をみてきた従業員がやめてしまったという経験もありますが、それは無駄だったわけではありません。そこで培ったものを次に活かしてくれているはずですから。




自分の仕事に自信を持ち、誰かを感動させよう!



―逆に、仕事をする上で「今の時代だからこそ」という点はありますか?


情報が瞬時に伝わるということでしょうね。もちろん全員にではありませんし、たったの数%かもしれませんが、自分がやっていることが知れ渡ってそれに感動してくれる人はいるものです。ですから、みんなもっと自身の仕事に誇りを持って欲しいですね。そういう態度が、部下や後輩に希望を与えることにも繋がりますので。


―確かに、自分の仕事に誇りを持てていない人は多いのかも知れませんね。


やりがいというのは、かっこいい仕事や華やかな仕事の中にだけあるわけではありません。私は義肢装具というニッチな分野で仕事をしていますが、むしろそういうところにこそ、自分も周りも幸せにできる要素が眠っていると感じています。「今はこういうのが流行っている」と、みんなで同じ方法に行っても仕方がありません。泥臭くて地味な仕事にも目を向けてみると、大きな喜びを見出すヒントが隠れていると思いますよ。



「世界から感謝の手紙が届く会社」中村ブレイスの社員と中村氏

▼中村ブレイス株式会社
http://www.nakamura-brace.co.jp/

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