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2017.06.28

小林麻央さん死去をめぐる報道のあり方を考える

Kindai Picks編集部

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コラム

小林麻央さん死去を伝えたマスコミの報道が物議を醸しているが、実際どうあるべきだったのか、そしてその背景にあるものとは。
元ロイター記者で、自身も乳がんの闘病経験がある、近畿大学総合社会学部教授の金井先生が解説します。

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【プロフィール】
金井 啓子 (カナイ ケイコ)
近畿大学 総合社会学部 社会・マスメディア系専攻/教授

外資系の通信社で18年間記者として英語および日本語で記事を執筆し、海外にも駐在した経験を生かして、取材方法などを中心としたジャーナリズム論を研究している。


■病気だけの人生ではない
「例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。『まだ34歳の若さで、可哀想に』『小さな子供を残して、可哀想に』でしょうか??私は、そんなふうには思われたくありません。なぜなら、病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです」
乳がんで闘病中だったフリーアナウンサーの小林麻央さんが死去した。冒頭の言葉は、英BBCの「100 Women(100人の女性)」に選ばれた際に小林さんが寄稿した文章の中にあったものだ。BBCでは毎年、世界中から影響力を持ち人の心を動かす女性100人を選び、取材し、記事やドキュメンタリーを作成しているという。

昨年11月にBBCのウェブサイトに掲載されてまもないこの言葉を読んだ時、私は「ああ、そうそう。私が言いたかったのはこれなんだよね」と深くうなずいたものだった。私事ながら、私も麻央さんと同じ乳がんを患い、5年前に手術を受けた。私の病気のことを聞いた友人が泣きそうな顔になった時には、「もうダメだと思ってるの?」と置き去りにされたようないたたまれない気持ちで戸惑ったことがあった。一方で、「それぐらい大丈夫。何も気にすることないでしょ」とやたら励まされたのにも困惑した。当事者にならないとわからないことは多いものだが、中でも「病気になったことが私の人生を代表する出来事ではない」ということは、周囲の人にはなかなか理解されていないようだと感じることが多かった。
この5年間ずっと定期的に主治医のもとに通っていた私は、麻央さんのこの言葉に深く共感したこと、そして同じ病気を患った経験を持つことから、彼女の病状は個人的にいつも気になっていた。それだけに、今回亡くなられたことは残念でならないし、心よりお悔やみ申し上げたい。そして、彼女のことは「若くして乳がんにかかり、小さな子どもを残して亡くなった人」としてだけではなく、アナウンサーとしてさまざまな番組に関わって情報を伝えた人、梨園の妻となって娘と息子を育てた人としても記憶したい。彼女に関わったさまざまな人たちが、それぞれの小林麻央像を持ち続けることが彼女の望みをかなえることにつながるのではないだろうか。



■マスコミへの悪印象はなぜか



ところで、23日午後の記者会見で正式に麻央さんの死去を発表する前に、夫で歌舞伎俳優の市川海老蔵さんはブログで「人生で一番泣いた日です。マスコミの方々もお察しください。改めてご報告させていただきますので、近隣の方々のご迷惑になるのでひとまずおかえりくださいませ」と書いていた。これを読んでインターネット上には「マスコミの人たちはそっとしておいてあげて」「自宅を囲むのはやめて」と言った声が書き込まれていた。記者会見でも海老蔵さんは、前夜あたりから多くの報道陣が自宅周辺に押し寄せていたことに触れていた。
私は大学でジャーナリズムについて教えているのだが、記者に対する学生たちのイメージがすこぶる悪い。その理由として最も頻繁に挙げられるのが、「事件の被害者や遺族、スキャンダルを起こした芸能人の自宅に報道陣が押し寄せて、取材のために取り囲む」ことに対する嫌悪感である。マスメディア業界への関心が人一倍強く、就職すら考えている彼らですらそうなのだ。それ以外の若者たちに至っては、どれだけ悪いイメージを持っているか、想像すらできない。

こういった取材の仕方を日本では、「メディアスクラム」または「集団的過熱取材」と呼ぶ。その定義は、社会の関心が高い事件・事故などが起きた際に、新聞やテレビ、週刊誌といったマスメディアの記者が大人数で、当事者や家族、友人、近隣の住民などに対して強引な取材をすることとされている。ラグビーで試合を再開するときの形のひとつである「スクラム」が由来であるとか、大勢の人々がデモを行う場合に見られる横の者と腕を組んで並ぶ「スクラム」の形が、取材対象に大勢で群がる記者の様子と似通っているとされている。日本ではマスメディアへの批判的な意味としてよく使われるようになったようだ。


■日本のメディアスクラム

日本におけるメディアスクラムの代表例をいくつか挙げるとすれば、1994年の松本サリン事件、1998年の和歌山カレー毒物混入事件、2001年の大阪教育大附属池田小学校児童殺傷事件などがある。松本サリン事件はオウム真理教による犯行だったが、第一通報者である河野義行さんがあたかも犯人であるかのように印象付ける情報を警察が報道機関に漏らしたため、河野さん宅には報道陣が大勢押しかけ、入院中の妻の病院にも記者やカメラマンが張り込んだ。和歌山カレー事件では林真須美死刑囚が「疑惑の人物」だとある新聞が報じて以降、事件現場のすぐ近くに住む林死刑囚の自宅前には100人を超す記者団が24時間張り込んだ。このような過熱取材に対して地域の自治会は「せめて通学時間帯や夜中は外してほしい」とマスメディアに訴えた。また、附属池田小事件では、一度に8人もの児童を殺害するという残忍な事件であったことから、国内メディアだけでなく海外メディアも取材に訪れ、事件は世界中に報じられた。報道陣は事件の現場となった学校だけでなく、同じ小学校に通う児童や保護者などにも取材攻勢をかけ、世間から「配慮が足りない」という批判を浴びた。

実は私自身も、ロイター通信の記者として大阪支局に勤務していた際に、附属池田小事件を発生当日から数日間にわたって取材した経験がある。発生後数時間経って下校していく1年生ぐらいの男の子がたまたま立ち止まってくれたため、話を聞き始めるとあっという間に記者やカメラマンの輪ができた。幸運なことに犯人が入った場所とは別の教室にいたその子は、教室のスピーカーごしに聞こえたバタバタした音や「校庭に逃げて」という声について話してくれた。私が男の子を囲んでいる時、生々しい証言が取れたことはこの凶悪事件を世界に向けて伝えるにあたって欠かせないという思いと同時に、こわい思いをしたばかりの小さな子にこんな話をさせて大丈夫なのかと迷う気持ちも抱えていたことは、事件から16年が過ぎた今も鮮明に覚えている。また、亡くなった児童の通夜会場のすぐそばに立ち、焼香を済ませて子どもと一緒に出てきた女性に私が声をかけると、まさに「汚いものでも見るかのような目」を向け、無言で去って行ったことも忘れられない。

ただ、私はこれとは全く正反対の立場に立ったこともある。タイのバンコクで2010年に治安部隊と反政府デモ隊の間で大規模な衝突が発生した際に、取材していたロイター通信のカメラマン、村本博之さんが銃撃されて死亡した。村本さんとは同僚として同じ職場で過ごしたことがあっただけでなく、私が大学で働くようになってからも出張で大阪に来た彼が連絡をくれて、ミナミで飲みながらあれこれとしゃべったことなどが懐かしく思い出される。その彼の訃報を聞いて、東京で行われた通夜に参列した時のこと。これだけ大きな事件であるから、当然ながら報道陣が取材に来ていた。献花を終えて式場を出ると、報道陣の姿が見えた。取材される可能性については参列前から少し考えていたが、今まで自分が記者として取材してきていたことを考えれば、自分が取材されるのを断る選択肢はないという結論を出していたので、記者に声をかけられると応じた。後になって私の言葉が記事に載っているのも見た。自分が話したことがきちんと載せられていた。それでも、自分が村本さんと過ごした日々を振り返れば、たった1-2分の中で思い出を語り尽くすことなどとてもできなかったという思いも湧いてきた。今では毎日のように取材する日々からは遠ざかったが、私が取材をさせてもらっていた人たちがどんな思いをしたのか、その一端を味わうという意味で、本当に鮮烈な思い出だ。



■メディアスクラム発生の背景


大きな事件や事故、災害では往々にして全国から記者、カメラマンが大挙して取材に押しかける。例えば特定の取材対象に1社が出向くと、他社は「先を越されては報道合戦に負けてしまう」と感じ、まるで集団催眠にでもかかったかのように1カ所へと集まる心理的な傾向にある。メディアスクラムの本質とは、報道機関同士の先陣争いからくる焦りや功名心が根っ子にあるといえる。他社はみんな報じているのに自分の社だけがそのネタをつかめない、いわゆる「特オチ」は恥ずかしいという恐怖心もあるだろう。

ただし、報道機関だってメディアスクラムに関して批判を受けて、そのままにしているわけではない。日本新聞協会編集委員会は「この問題にメディアが自ら取り組み自主的に解決していくことが、報道の自由を守り、国民の『知る権利』に応えることにつながる」として、集団的過熱取材に関する見解を示した。「いやがる当事者や関係者を集団で強引に包囲した状態での取材は行うべきではない」「通夜葬儀、遺体搬送などを取材する場合、遺族や関係者の心情を踏みにじらないよう十分配慮する」「取材車の駐車方法も含め、近隣の交通や静穏を阻害しないよう留意する」などとしている。また、メディアスクラムの状態が発生してしまった場合の解決策としては、「社ごとの取材者数の抑制、取材場所・時間の限定、質問者を限った共同取材、さらには代表取材など」を行うことを挙げた。日本民間放送連盟も似たような見解を示している。



■メディアの役割と記者への期待


さて、今更ではあるが、ジャーナリズムが果たす役割は何なのか。それは、人々が関心を寄せている出来事、または現時点ではほとんど知られていないが多くの人にとって影響を及ぼしうる事象を、丹念に取材して事実を伝え、時にはその内容を分析・批評することである。
そういった観点から見れば、今回の麻央さんの件に関しては、彼女の死を伝えるのはマスメディアの仕事として当然のことだと言える。加えて言えば、麻央さん自身が自らの闘病生活をブログで綴っていたことも世間の関心を大いに呼ぶことになった。だから、大勢の報道陣が自宅に押しかけたことはやむを得なかったとも言える。ただし、その際にも、日本新聞協会や日本民間放送連盟がこれまでの反省の上に立って公表した見解に示した指針に沿うことは欠かせない。仮に行き過ぎた取材があったとすれば、それを振り返ることも忘れるべきではない。
さらに、ジャーナリズムに関わる報道機関としては「騒いで終わり」といったマッチポンプ的な役割ではなく、ある現象が社会にどう役立つのか、どう反省すべきなのかを検証する義務もある。今回の麻央さんの死去については、がんの患者はどう生きればよいのか、乳がんを含めたがんの撲滅に社会はどう立ち向かえばよいのかという検証も必要だろう。たとえば、今はまだ、がん患者が仕事と治療の両立を十分に続けていける社会とは言えない。がんをはじめとする病気にかかった人たちが生きやすい社会を実現するためにも、マスメディアが果たせる役割は少なくないはずである。

そして、ジャーナリズムに求めたいことがもうひとつ。いま大はやりの「忖度」をしすぎないことだ。確かに、報道機関に対する目はこれまでになく厳しい。「マスゴミ」という言葉も特にインターネット上ではよく目にする。近頃は記者会見の模様も生中継で伝えられることが多くなってきており、記者の一言一句をとらまえて「あんな質問の仕方はないだろう」などと記者を叩いたりする風潮もある。取材対象に対して本当に聞かなければいけない何かがある時、「この質問は聞いてほしくないかもしれない」と取材相手の気持ちを忖度して質問をやめたり、叩かれるのがこわいからやめておこうと萎縮してしまっては、もはや記者という仕事に就いている意味は失われてしまうのだ。

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