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末期がんから生還した"敬天"の医療人 人を生かす医療・経営へ強い使命感

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DOCTOR'S MAGAZINE

2016.12.20

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オピニオン
医療
塩﨑学長

末期がんから奇跡的に生還し、近畿大学でリーダーシップを発揮する塩﨑均学長。幼少期までさかのぼり、その人格形成から使命感までを聞いた。
*本記事は、DOCTOR'S MAGAZINE(12月号)に掲載された記事です。

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11年前、PETに映った末期がんは自分のものだった

最新鋭のPETのモニターに、眩しい光を帯びて映し出されたのは、腹部大動脈周囲のリンパ節に転移したがん。ひと目で進行性の悪質ながんだと見抜けたのは、消化器がんの専門医として、同じ症状の患者を何百例も手術してきたからだった。助かるのは100人中わずか2人か3人ということも分かった。

この患者は、なんと自分自身だった。2005年のことである。

「病院長就任と同時に導入したPETで、最初の被験者になって、まさか自分にがんが見つかり、それも自分の専門領域でとは思いもよりませんよ」

塩﨑均氏、近畿大学学長は、苦笑いしながら当時を述懐した。

病院長に就任した年は忙しく健診を受け損ねていた。その翌年の9月にPETが2台導入された。特定機能病院の役割を担う「高度先端総合医療センター構想」を計画、その目玉ががんの早期発見が可能な検査機器であった。そこで新規稼働テストの"実験台"となり、ブドウ糖と放射性同位元素を融合させた薬剤を静脈注射し、PETで全身撮影をした。

そして、画面に映っていたのは、かつて「Pen型」といわれた深く進行する胃がんだった。

念のため患者名を伏せて、後輩のがんの専門医に画像を見せた。彼は言い切った。

「ステージⅣですね。もう手遅れです」


ステージⅣの胃がんに放射線と抗がん剤併用が奇跡へ

塩﨑氏は「何も治療せずに残された人生を生きよう」と考え、家族にもそう伝えた。

ところが次の日、心に迷いが生じた。同じ症状の患者を助けてこられなかった自分がいた。

「お前は今まで何人の患者を救えなかった?死ぬわけにはいかんだろう」

自問して究極の選択をした。

それまで胃がんには行っていない放射線と抗がん剤の併用である。胃に穴が開くか癒着するだけでは、と放射線科の教授は否定的だった。毎日午前中、教授室で抗がん剤の点滴、飲み薬を服用し、11時からは放射線を当てられた。その後いったん帰宅して昼食の後1時まで寝て、病院に戻って病院長の仕事と回診をした。

「1日も休まずに4週間続けました。痩せて、髪の毛も薄くなり、見るも無惨な姿で院内をさまよってました(笑)」

長くないと囁かれた1ヶ月後、奇跡が…。


「いかに生きるか」を妻の"暴挙"が教えてくれた

再検査をするとがんがPETの画面から消えていた。そこで切除手術に踏み切り成功はしたものの、術後が思わしくなかった。胃は全く働くことなく、水も飲むことができなかった。点滴だけの日々、体重は日に500gと減っていった。「翌年の桜は無理だ」とつぶやく横で、妻は元気づけるためにある"暴挙"に出た。

妻は苦しむ夫の姿を見て、正月の間、自宅への外泊許可願いを出した。抗がん剤の入った点滴を10パック携え、家族も皆揃った。正月なのに点滴だけで飲まず食わずかと諦めていると、妻は二つ目の暴挙に出た。

「日本酒のお湯割りを出してくれました。これがまた、体にしみこみました」

それを機に水も飲め、食事もできるようになった。すると一つの言葉が降りてきた。


「敬天愛人」まだやるべきことがある


「天を敬い、人を愛する」――西郷隆盛が遺訓として残した四文字。西郷自身、一度死に瀕しながらも生き延びて達した境地、「天が自分を生かすなら、まだやるべきことがある」が含意されている。

「私も病気のおかげで『いかに生きるか』を考えるようになりました」

生還して、今にこやかに笑う塩﨑氏は、背は高くなく筋骨隆々でもないが、芯の強さを感じる。ひと言でいえば「大きな人」。一体何が強く大きく感じさせるのか。その半生を見ていくと、意外にも心を閉ざした少年時代があった。


昆虫好き少年に芽生えた生命の尊さへの敬意

何を考えているか分からない子といわれた。教室では机に頬杖をつき、挙手をしたことはなかった。通知表には常に「消極的」と書かれた。和歌山県新宮市生まれ。郵便局長の家に生まれた恥ずかしがり屋の末っ子は、人よりも自然が友達だった。熊野川と南紀の海が交差する河口には、ハゼも海老も鰻もいた。

「バケツとお箸を2本持って行けば蟹がバケツいっぱいとれました」

生き物好きは家に動物がたくさんいたせいもある。山羊に軍鶏、メジロや猫や犬。金魚鉢は材木で栄えた町らしくヒノキ造り。父も生き物が好きで、餌捕りは塩﨑少年の役目で、川でアカゴをとった。棕櫚の皮を剥がしてメダカの産卵床も作った。昆虫も大好きだった。

蛹を突っつくと変形した羽根や欠けた羽根を持つ蝶が生まれた。捕まえた昆虫を手の平で包むうちに死んでいたこともある。「それはなぜだと思う」と父が塩﨑少年に訊いた。

「父は『蛹は成長の仕組みを伝えている。昆虫が血を出さないのは、血を見て子供が心を痛めないようになんだ。身をもって生命の尊さを教えている』と言っていました」


若かりし頃


全国模試で30万人中160位 進路を「医師」に

地元の高校に進学し、大学は法学部に入り、公務員になろうと考えたが、高い学歴の若手が、郵便局長の父を追い越していくのが歯がゆかった。勉強はできた。「旺文社の全国模試」では30万人中160番。神童はどんな道も選べたが、卒業間近の夏、進路を医師に変えた。

「小さいころから切手収集に取り憑かれていました。習いたての英語で文通すると外国から返信が来る。インドネシアやボルネオからサイやオランウータンの珍しい切手を貼った封筒が嬉しくてね。医者になって未開拓の地域で診療すれば、人も救えるし切手もたくさんもらえる、一挙両得と考えました(笑)」

医師になる動機を茶化して話すが、生命の尊さへの敬意が見える。実は自然の中で悶々としていた塩﨑少年こそ、「蛹」だった。無理に開かれずに過ごしたことで変形しなかった。だから開かせるものに出会えた時、羽ばたくことができた。それは合気道である。


相手の力を受ける哲学 合気道が潜在能力を引き出す

1960年代半ばの大阪は、高度成長の軋みで煤煙は酷く川は濁り、どこも灰色だった。だが狭い故郷から解放された塩﨑青年の目には何もかもが輝いて見えた。姉の家に居候しながら、大阪大学医学部へ意気揚々と通いだすと、都会の人に負けない自分を見つけた。

「自分で作った劣等感と言う『繭』に自分を閉じ込めていたんです。しかし外に出ると自分には俊敏さも力もあった」


大阪大学医学部時代

潜在能力を引き出したのは合気道だった。
2年生で合気道部主将となり、将来の仕事に、とまで思った。その魅力は何なのだろう。

「当時はまだ創始者の植芝盛平氏がお元気で、関西の演武大会に来られ投げ飛ばされました(笑)。投げてもらいましたといいますか」

開祖の植芝は身長156㎝の短躯で、2mに近い相撲取りや武道家を次々とひっくり返した。木刀を振るって襲う者もいつの間にか組み伏せられた。小柄な背丈で、野山をかけていた塩﨑氏には魅力だった。だがそれ以上に合気道には哲学があった。

「剣道や柔道は一対一で勝ち負けを争うもので、レベルが違うと相手に勝てません。当然自分の才能のレベルも分かる。だから勝つ方法を極めようとする。一方、合気道は大きな相手にも負けない。なぜなら相手の力を使うからです。場を制する力を極めるものです」

直線的に相手に立ち向かう武道に対して、合気道は曲線的に相手の力を受け止めて流す円の動きがある。相対する相手が「投げてもらう」気になるおもしろさがある。


大阪大学医学部時代。合気道部員と(下列一番左)

余談だが後年の研修医時代、大阪の八尾市の病院勤務時にその腕を買われた。医療の腕だけでなく「腕っ節」である。

「がん治療をした患者の夫がヤクザで『医者にしとくのはもったいない、ウチに来ないか』って誘われ(笑)、家まで押し掛けてきた」

表に出る力ではなく、相手を内で上回る力を、暴力のプロに認められた。


一貫した医療が学べる消化器外科へ

学園紛争が吹き荒れる中、大阪大学医学部を卒業、そのまま入局した。消化器を扱う第二外科を選んだ。

「私の時代は外科が診断から胃カメラ、読影、もちろん手術をして、病理標本まで全部やりました。どこでも通用するじゃないですか」

初心である未開の地での医療を考えれば納得の選択であるが、彼の外科医への轍をたどると、合理と人情の線が交差している。一貫した医療を学べる理由で消化器外科、それもがんを選んだのは「がん戦争時代」前夜を考えると合理がある。

一方、研修医時代の恩師の厳しい言葉には人情があった。


「医師である前に人間であれ」医療の本質を学ぶ

塩﨑氏が教育係で、ポリクリの学生に外来で診察をさせた。恩師も側にいた。患者は高齢者の女性で和服を着ていた。学生は診察を終えると「起き上がってください」と声をかけた。その時、師は烈火の如く怒った。

「『お前、どうして手を差し伸べて起こしてあげないのか!人間としてなってない!お前なんか医者になる資格なんかない!』と怒鳴りだしたんです。お年寄りだし和服だから、起き上がりにくかったんですね」

怒鳴られたのは学生だけでなく自分にも、と感じた。恩師は岡川和弘氏。後に近畿中央病院院長を務め、日本外科学会の名誉会員でもある。手術が非常に上手かったが、先輩医師たちは叱り飛ばされるので敬遠していた。塩﨑氏は師から可愛がられて手術をたっぷり学び、さらに「医師である前に一人の人間であれ」、つまり医療の本質を学んだ。そして留学先のドイツで病気の本質を学んだ。


ドイツで解剖100体 抜きん出た外科医になる

第二外科の陣内傳之助教授の紹介文を携えて、ドイツ最古の大学、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク、通称ハイデルベルク大学へ留学した。顕微鏡とにらめっこで病気の原因や発生メカニズムを解析する病理学を選んだのは、病気の本質を理解できる外科医になるためだった。

「外国人でも一人前の医者として扱われ、朝7時半から夜までぶっ通しで働きました」

ハイデルベルク大学の病理学教室は先進的だった。建物一棟が病理学教室専用であり、医師や技師は200人ほど。同じ頃の大阪大学はわずか十数人である。施設や体制に差があるばかりか解剖数にも大きな差があった。

「ハイデルベルク大学では毎日7、8体の遺体がヘリコプターで運ばれ、教授が「君はこれ」と割り当てて解剖させます。1年間の留学中に100体は解剖しました。がんや日本ではめったに見られない足の動脈硬化の糖尿病もありました」

発生学からの知見も得た。

「人間の身体は二重の膜で包まれているところが多いですが、解剖をちゃんとすれば見えてきます。膜と膜の間で手術すれば絶対に血が出ないんです」

筋膜の二重パック構造である。臓器や骨に接する膜と接しない膜の間で手術をすれば、出血は少なく低侵襲でできる。抜きん出た外科医になる基本を知った。

留学では落胆もあった。帰国後、病理学専門医の認定を受けようとした時、認定には20体の解剖経験が必要で、留学前の15体とドイツの100体を申請した。ところが海外実績は認めないという理由で却下された。体制面で相当な後れを取りながら、先進国の実績を認めない日本医学会の閉鎖性に言葉を失う。


生涯症例4000例超 「声を残す」がん手術で名声


医師になってから。近畿大学医学部今本治彦氏(左)と。ドイツから講師を招いて(1982年)

留学から帰局後は、塩﨑氏が一流の外科医になる時代となった。

大阪逓信病院(現NTT西日本大阪病院)と大阪大学医学部附属病院で食道がん、胃がんの手術を数多く手掛けた。生涯症例数は4000例を大きく超えるが、この時代の実績が中心である。とりわけ「声を残す」頸部食道がん手術で世界的な名声を得た。

そこには外科医としての高い技量と深い思慮がある。

「最初の症例は五十代の男性の患者さんでした。何とか声を残してあげたいと従来の方法で喉頭を残す手術をしました。手術は成功し、声も残せましたが、食事を飲み込めない」

誤嚥、つまり気管に入ってむせてしまう。結局再手術をして、喉頭を切除し声帯は失われた。やり残したものを感じた。


やり残したものがあった 「どう生きたいか」を見る医師に

10年後、同じ症状の患者が来た。四十代の男性は営業職で、こう訴えた。「声を失うのは仕事を失う、つまり人生を失うことです」。それを聞いてはたと思い当たった。

「命さえ助ければいい、命さえ救えれば何をやってもいいのではない」

手術は単なる切除ではなく、患者の人生を切り取らないことでもある。

塩﨑氏は耳鼻咽喉科医に聞き回り、文献に当たった。従来の手技は食堂と共に喉頭を切除する手術(喉頭合併切除:上部の舌を支える舌骨、下部の輪状の軟骨、その間の甲状軟骨の全てを切除)である。それをがんのある食道のみを切除し、喉頭を温存し上下の舌骨と輪状軟骨さらに下顎骨を結び合わせ、声を残す術式を開発した。

「発声はもちろん嚥下機能を温存し、飲み込めるようになりました。今では回復されて元気に仕事をされています」

塩﨑氏が諦めずに開発した「声帯温存法」が世界に広がっていった。

もう一つ忘れられない手術がある。阪大医学部の外科教授が食道がんにかかり、講師の塩﨑氏に執刀を委ねた。腕を見込まれた手術は成功し、「他言無用」と医局中に口止めした。ところが手術4日後、日本癌治療学会シンポジウム(大阪)に出席すると、塩﨑氏の所に次から次へと耳打ちする医師が絶えなかった。

「日本中の外科医が『あれどうなった』って聴く(笑)。これはいかん」

部下に手術をさせて亡くなった教授を何人も知っていた。執刀医は外科医師失格の烙印を押された。だからこそ後年の自分のがんの執刀は部下に任せず、他病院の後輩に委ねた。手術には患者の命がかかっているが、執刀者の人生もかかっているのだ。

塩﨑氏は人が「どう生きたいか」を見る医師になった。


辣腕理事長から白羽の矢 3年も経たずに病院長就任

2001年、全国公募で近畿大学医学部の第一外科教授に着任した。3年も経たない頃、理事長だった故世耕弘昭氏に呼び出された。

「病院長をやってくださいと言われました。まだ新任で、先輩も副院長をされているのでと断ったのですが、何度も言われて、最後には『病院長を引き受けないなら大学を辞めてください』とまで言われました」

そこまで言う世耕弘昭氏とはどんな人物か。大学発で有名な「近大マグロ」は世耕弘昭氏の理事長時代に大きな飛躍を遂げた。2002年に完全養殖に成功し、販売に弾みをつけるため株式会社アーマリン近大の設立を指示、大学発ベンチャーの数少ない成功事例となり、2006年には「近大マグロ」の商標登録も取得、全国レベルの知名度に押し上げた。

学内では「近未来プロジェクト」を立ち上げ、若手職員による部署横断型プロジェクトを組織させた。"学生食堂プロジェクト"は女子学生をターゲットにした店作りを、"入学式プロジェクト"ではこれまでにない入学式を創れと檄を飛ばした、この手法は後年、塩﨑氏も踏襲することになるのだが、世耕氏は塩﨑氏ならできると見抜いていた。

大阪大学の先輩である当時の副院長が、最後のひと押しをした。

「俺よりお前の方が向いているからやれ」

病院長を受諾する代わりに、塩﨑氏が理事長に談判したのが、PETの導入であった。

「世耕氏だけでなく、PETにもがんを見抜かれました(笑)。その後、医学部長、学長に推されたのですが、私なら絶対雇いません。いつがんが再発するか分からないですもん」


近畿大学附属病院(2008年~2012年)


院内目安箱の設置 患者や家族の声に応える姿勢

だが世耕氏の目に狂いはなく、塩﨑氏のがんは再発せず、実績を上げた。院長時代は"院内目安箱"を設置し、患者や家族からの投書を読んだ。読むだけでなくクレーム主に直接会い、改善し合って味方にするのが塩﨑流である。医学部の学生の名前も覚えた。

「キャンパスで、『○○君、おはよう!』というと、学生は自分の名前を覚えてくれていると思って喜ぶけど1学年100人、たかだか600人なので、全員覚えているんですよ」


医学部長から学長へ 強いリーダーシップで改革

学長に就任すると、東日本大震災の被災地支援「オール近大プロジェクト」を発進した。全13学部48学科を横断して36の研究課題を出させ、具体的な支援策も展開した。全職員の賞与からの寄付も2億円に達した。全国の近大施設を訪ね歩き、全ての幹部職員を毎月集合させ、学部の壁を超えるプロジェクトを促した。その成果は先駆けとなったインターネット出願「エコ出願」や志望者数3年連続トップの実績、250社の企業との事業提携、年間400本のプレスリリースに表れる。

400億円を投じるキャンパス整備の目玉は24時間オープンの自習室を備えた巨大図書館や国際交流棟であり、増加する女子学生のためのパウダールーム付きトイレまで、と気配りがある。

「変わらなければいけないものと、変えてはいけないものがあります。時代遅れになってはいけない。しかし人を大切にするという根本は変えたらいかん。それは医療にも大学経営にも通じることです」




どの足跡にも、どの実績にも優しく深い"和顔"が見える

塩﨑氏のどの足跡にも、どの実績にも「人の顔」が見える。

外科医時代には厳しい師の顔があり、生命だけでなく人生の目的まで救われて感謝する患者の笑顔がある。

教授時代には数千名の医学生の顔がある。

病院の改善に意見した患者やその家族の顔がある。

学長時代には途方に暮れる被災者の顔も、提携する企業経営者の真剣な顔もある。もちろん全国の近大職員、すなわち"大学改革者たち"のひたむきな顔がある。

医師としてリーダーとして、苦痛に満ち、迷い、絶望する人々の顔を和顔にして返して来た塩﨑氏。

その優しく深い和顔の力は、自分自身ががんに罹患した時、いかに生きるかを問うて、自分のためでなく患者のために生きよう、という使命に目覚めた時、天から与えられたものだ。

「人間が好きなんですよ。患者も職員も学生もみんな好き。私が好きになるから皆が私を好きになってくれる。だから楽しい」

近大の入学式をプロデュースする音楽プロデューサーのつんく♂(1991年近大卒)は、新入生への祝辞にこう書いた。

「人生なんて気持ち次第。私は心の中が幸せでありたい」

喉頭がんで声を失った彼もまた「いかに生きるか」を問い続けている。

塩﨑氏は大学のキャンパスに立ち、そう問う人びとを「いかに生かすか」問い続けている。


聞き手/中村明(株式会社メディカル・プリンシプル社 社長)
文/郷好文
撮影/稲垣純也



塩﨑 均(しおざき ひとし)
近畿大学 学長


1970年 大阪大学医学部 卒業
    大阪大学医学部第二外科 研修医
1978年 西ドイツ・ハイデルベルク大学 留学
1980年 大阪逓信病院外科
1981年 大阪大学医学部第二外科 助手
1989年 大阪大学医学部第二外科 講師
1995年 大阪大学医学部第二外科 助教授
1998年 大阪大学大学院医学系研究科病態制御外科 助教授
2001年 近畿大学医学部第一外科 教授
2003年 近畿大学医学部外科 主任教授(外科統合により)
2004年 近畿大学医学部附属病院長
2008年 近畿大学医学部長
2012年 近畿大学 学長、近畿大学短期大学部 学長

日本消化器外科学会 名誉会員、日本食道学会 名誉会員、日本外科学会 特別会員、日本癌治療学会 特別会員、日本胃癌学会 特別会員、手術手技研究会 会長、日本私立大学協会 常務理事、日本私立医科大学協会 理事、大阪対がん協会 副会長・理事

著作:『天を敬い 人を愛し 医に生きる』


*掲載誌:DOCTOR'S MAGAZINE(12月号)

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